日々拍手ありがとうございます!
昨日Carpe diemに挙げたばかりの3話ですが,まことに勝手ながら後編を付け足して「事実」という話でまとめさせていただきました.
3編それぞれに拍手をくださっていた方々,申し訳ありません.
それから挙げておいて何なんですが,「事実」という話,実は私も掴みかねている謎起き話です.
あまりに内容が散漫なため,今後手を加える可能性も下ろす可能性もあります.
私の自己満足のための行為となりますが,ご了承いただければと思います.
それでは拍手レス!
■11/15 23:40 「ザラ親子の雪の日…」の方
⇒うちのザラ親子はこうこうこんな感じですよ,とちゃんと説明したのですが,家族を説明するときってどうしても上手にできないんですよね.
パトリックさんはそりゃあもうアスラン溺愛で,アスランのくしゃみ一つ,咳一つであたふたする,でも心配しているとなかなか分かってもらえない人です.
レノアさんもレノアさんでアスラン溺愛なのですが,子どもは風の子理論で,冒険をしたりそれによって怪我をしたり風邪をひいても,それも含めて子どもの仕事ばりに考えている人です.
アスランはアスランで,上手に言えないもののそんな両親のことが大好きで,誇らしく思っています.
パトリックさんの不器用なところ,でも傍にいる人には優しいところ,レノアさんのおおらかな包容力,どことなく浮世離れした雰囲気のあるところは,ちゃんとアスランに受け継がれているらしいです.
…が,それ以外にも家族っていろんな要素を持っているはずなんですよね.
しかしそれを語り尽くせないのが“家族”ってものなんでしょうね.
ですから,ザラ親子のもっと別の側面だったり,裏の部分も多分あるのでしょうが,全然言葉にできません.
う~ん,せっかくご感想を頂いたのに大した返信ができずに申し訳ありません;
ただ言えるのは,この三人の姿ってのはこの三人がいるから表現されるものだってことなのでしょう.
パトリックさんの不器用な優しさも,レノアさんの一歩引いて見守る姿勢も,アスランが珍しくぐずるのも,この三人だからこそ見られる光景なのかもしれません.
そう思うと,もっともっと彼らの姿を描きたくなってきますね.
ザラ親子だけでなくジュール親子も書いてみたいと思っています.
よろしければこれからも彼らの家族の面影を見ていただけたらと思います.
それではコメントありがとうございました!!
■11/16 17:45 「日記のイザアス考察。…」の方
⇒心に響く!?
まずそのお言葉こそが心に響きました!
話を書く際に,私は現象の情景を述べるよりもその事象が生じた際に心に起こる動きを説明する方が得意,というか好きだったりします.
そこには“かくあるべき”という制約が存在しないので,それが個人の心の中で起こるものであるならばどんなものを生じさせようが自由で,それを写実する表現も自由になるものですから,本当に気軽に描けるのです.
心の中で起きることに正誤はなく,正誤はそれが行動として表現された際に評価されるものです.
よって,正誤のない心の動きはそれがないだけに,その心を持つ当人ですら不可解で不安にさせるものだと思います.
アスランにとってイザークの「お前がお前であれば…」という姿勢が恐怖に繋がるのは,自分がただ自分であることを認めてもらえることに対する恐怖だけでなく,それがもしかしたらアスランが勝手にそう感じている“勘違い”かもしれないことに対する恐怖もあると思います.
だからアスランはイザークに教えてほしいのです.
「俺が俺であるとは,どのような“条件”を満たせば達成できるのか」,「俺の勘違いではなく,お前は本当に俺が俺であればいいって思っているのか」 ってこと.
最終,「どんな条件を満たした俺を、お前は認めてくれるんだ」ってこと.
結局,アスランは自分が自分でいることすら条件や理由があった方が楽なのかもしれません.
それがないと分からないのでしょう.
けどイザークは教えられるはずもないのですよね.
だって「Aは本当にAである」という公式は実際に目に見えるもの,手に触れられるもの,たとえば数学の問題や科学的根拠のようなものにしか適用できないわけで,絶対に可視化できない,物体化できない心ってものの中に浮かんでいるのが,本当に“A”というものであるかどうかなんて,誰にも,それを持つ当人ですら証明できないのですから.
なんて言っていたら,心というものや,それを有する人間を言葉で以て描くことに何の意味もなくなってしまうのですが….
話は戻りますが,私が心理的描写が好きで,それをあなた様が仰ってくださるように“大事に”書けているのだとしたら,私はこれからもそうした描写を描けていけたらと思います.
結局心に浮かぶあらゆること,たとえば“A”というものは常に“Aであり”,“Aでないもの”に流転し続けます.
そういう二律背反ゆえに正解というものを永遠に得られない心ってものを,それでも何とはなしに自分なりに帰着点を見つけて描けていけたらと思います.
それから,さらに話は変わってThe rose,聴いていただけましたか!
手嶋葵バージョンがおススメですが,誰の歌声でもきっと素敵だったことだろうと思います.
名家の二人にしてはえらく安上がりなプレゼントですし,こういう回りくどいことをしてアスランがその意味を察せられるとは 到 底 思えないのですが…今回のアスランは覚醒していたとでも思ってください.
自分で書きながら「甘い」と思いました.
こんな二人を見せられた日には胸やけを起こすことでしょうね.
これを毎日見せられているディアッカの胃は,きっと鍛えられて相当強靭になっていることでしょう.
意外と,三人の中で一番タフなのはディアッカなのではないでしょうか.
それでは長々と失礼しました.
コメント,ありがとうございました!!
■11/18 09:31 「新作の3編すてきです。…」の方
⇒さっそくのコメントありがとうございます!
まことに勝手ながら,その3編を言ったん下げさせていただいて,新たに後編を加えた「事実」という話に切り替えさせていただきました.
そのまま3つの話で掲載し続け,後編の「記憶箱」を単独の話として挙げるつもりでいたのですが,「Carpe diem」に置いておくには些か重い話であるということと,「記憶箱」と相互補完させるために「記憶虫」という題名でまとめました.
ちなみに,Carpe diemとは,日本語で言うところの“日々是好日”にあたり,生きている今日という一日を花を摘むように我がものとせよ,という意味です.
そういう意味からも,そこに置いておくのは違和感があって,撤去しました.
「永遠に失った」.
本当に,ザラ親子はいつ書いてもその思いに駆られます.
どんなに幸せな面影を描いても,現在のアスランはそれを永遠に失ってしまった後なんですよね.
幸せな家族の風景を描いて心が温まっても,それと共に喪失感を強めてしまいますね.
私たちは彼らのこの後の結末を知っているからこそ,余計に彼らの風景に心を動かされ,幸福の中にも悲しみを感じるのかもしれません.
これが,ただこれまで蓄積された記録を振り返る行為にしか過ぎず,これからが決してないことを知っていても,アスランが確かにこの世で二人の人間に無条件で愛されていたということを確認せずにいられないのでしょうね.
「事実」と繋げてしまって申し訳ないのですが,この時点でのアスランは,もう自分で確認しようとはしないでしょうから.
どんなに幸せだった頃を振り返ったとしても,どんなに両親が優しかったことを思い浮かべても,それと一緒に周囲からの否定の言葉を思い出してしまうから,きっと傷付いて傷付いてしょうがないでしょう.
幸せな家族だっという事実と,両親が優しかったという事実を,この世界の誰にも打ち明けられないですから,それはもう事実ではないのかもしれません.
だからアスランは自分だけの事実を胸の奥深くに仕舞って,誰にも犯されないように,自分自身ですら塗り替えられないように忘れ去ってしまったわけですから,もう「自分たちは家族でした」というただの事柄以外確認しようとはしないと思います.
それこそが,本当に“失った”ことになってしまうのでしょうが….
両親がいない事実父が行った事実は永遠に変えられなくても,両親が好きだったという事実は失わずにいてほしいし,幸せだった頃の自分を取り返してほしいと思います.
それが多分,私が悲しい気持ちになりながらもザラ親子を書く理由なのでしょうし,あなた様がこの話にコメントをくださった理由なのかもしれません.
ありがたいコメントでした.
ありがとうございます!
昨日Carpe diemに挙げたばかりの3話ですが,まことに勝手ながら後編を付け足して「事実」という話でまとめさせていただきました.
3編それぞれに拍手をくださっていた方々,申し訳ありません.
それから挙げておいて何なんですが,「事実」という話,実は私も掴みかねている謎起き話です.
あまりに内容が散漫なため,今後手を加える可能性も下ろす可能性もあります.
私の自己満足のための行為となりますが,ご了承いただければと思います.
それでは拍手レス!
■11/15 23:40 「ザラ親子の雪の日…」の方
⇒うちのザラ親子はこうこうこんな感じですよ,とちゃんと説明したのですが,家族を説明するときってどうしても上手にできないんですよね.
パトリックさんはそりゃあもうアスラン溺愛で,アスランのくしゃみ一つ,咳一つであたふたする,でも心配しているとなかなか分かってもらえない人です.
レノアさんもレノアさんでアスラン溺愛なのですが,子どもは風の子理論で,冒険をしたりそれによって怪我をしたり風邪をひいても,それも含めて子どもの仕事ばりに考えている人です.
アスランはアスランで,上手に言えないもののそんな両親のことが大好きで,誇らしく思っています.
パトリックさんの不器用なところ,でも傍にいる人には優しいところ,レノアさんのおおらかな包容力,どことなく浮世離れした雰囲気のあるところは,ちゃんとアスランに受け継がれているらしいです.
…が,それ以外にも家族っていろんな要素を持っているはずなんですよね.
しかしそれを語り尽くせないのが“家族”ってものなんでしょうね.
ですから,ザラ親子のもっと別の側面だったり,裏の部分も多分あるのでしょうが,全然言葉にできません.
う~ん,せっかくご感想を頂いたのに大した返信ができずに申し訳ありません;
ただ言えるのは,この三人の姿ってのはこの三人がいるから表現されるものだってことなのでしょう.
パトリックさんの不器用な優しさも,レノアさんの一歩引いて見守る姿勢も,アスランが珍しくぐずるのも,この三人だからこそ見られる光景なのかもしれません.
そう思うと,もっともっと彼らの姿を描きたくなってきますね.
ザラ親子だけでなくジュール親子も書いてみたいと思っています.
よろしければこれからも彼らの家族の面影を見ていただけたらと思います.
それではコメントありがとうございました!!
■11/16 17:45 「日記のイザアス考察。…」の方
⇒心に響く!?
まずそのお言葉こそが心に響きました!
話を書く際に,私は現象の情景を述べるよりもその事象が生じた際に心に起こる動きを説明する方が得意,というか好きだったりします.
そこには“かくあるべき”という制約が存在しないので,それが個人の心の中で起こるものであるならばどんなものを生じさせようが自由で,それを写実する表現も自由になるものですから,本当に気軽に描けるのです.
心の中で起きることに正誤はなく,正誤はそれが行動として表現された際に評価されるものです.
よって,正誤のない心の動きはそれがないだけに,その心を持つ当人ですら不可解で不安にさせるものだと思います.
アスランにとってイザークの「お前がお前であれば…」という姿勢が恐怖に繋がるのは,自分がただ自分であることを認めてもらえることに対する恐怖だけでなく,それがもしかしたらアスランが勝手にそう感じている“勘違い”かもしれないことに対する恐怖もあると思います.
だからアスランはイザークに教えてほしいのです.
「俺が俺であるとは,どのような“条件”を満たせば達成できるのか」,「俺の勘違いではなく,お前は本当に俺が俺であればいいって思っているのか」 ってこと.
最終,「どんな条件を満たした俺を、お前は認めてくれるんだ」ってこと.
結局,アスランは自分が自分でいることすら条件や理由があった方が楽なのかもしれません.
それがないと分からないのでしょう.
けどイザークは教えられるはずもないのですよね.
だって「Aは本当にAである」という公式は実際に目に見えるもの,手に触れられるもの,たとえば数学の問題や科学的根拠のようなものにしか適用できないわけで,絶対に可視化できない,物体化できない心ってものの中に浮かんでいるのが,本当に“A”というものであるかどうかなんて,誰にも,それを持つ当人ですら証明できないのですから.
なんて言っていたら,心というものや,それを有する人間を言葉で以て描くことに何の意味もなくなってしまうのですが….
話は戻りますが,私が心理的描写が好きで,それをあなた様が仰ってくださるように“大事に”書けているのだとしたら,私はこれからもそうした描写を描けていけたらと思います.
結局心に浮かぶあらゆること,たとえば“A”というものは常に“Aであり”,“Aでないもの”に流転し続けます.
そういう二律背反ゆえに正解というものを永遠に得られない心ってものを,それでも何とはなしに自分なりに帰着点を見つけて描けていけたらと思います.
それから,さらに話は変わってThe rose,聴いていただけましたか!
手嶋葵バージョンがおススメですが,誰の歌声でもきっと素敵だったことだろうと思います.
名家の二人にしてはえらく安上がりなプレゼントですし,こういう回りくどいことをしてアスランがその意味を察せられるとは 到 底 思えないのですが…今回のアスランは覚醒していたとでも思ってください.
自分で書きながら「甘い」と思いました.
こんな二人を見せられた日には胸やけを起こすことでしょうね.
これを毎日見せられているディアッカの胃は,きっと鍛えられて相当強靭になっていることでしょう.
意外と,三人の中で一番タフなのはディアッカなのではないでしょうか.
それでは長々と失礼しました.
コメント,ありがとうございました!!
■11/18 09:31 「新作の3編すてきです。…」の方
⇒さっそくのコメントありがとうございます!
まことに勝手ながら,その3編を言ったん下げさせていただいて,新たに後編を加えた「事実」という話に切り替えさせていただきました.
そのまま3つの話で掲載し続け,後編の「記憶箱」を単独の話として挙げるつもりでいたのですが,「Carpe diem」に置いておくには些か重い話であるということと,「記憶箱」と相互補完させるために「記憶虫」という題名でまとめました.
ちなみに,Carpe diemとは,日本語で言うところの“日々是好日”にあたり,生きている今日という一日を花を摘むように我がものとせよ,という意味です.
そういう意味からも,そこに置いておくのは違和感があって,撤去しました.
「永遠に失った」.
本当に,ザラ親子はいつ書いてもその思いに駆られます.
どんなに幸せな面影を描いても,現在のアスランはそれを永遠に失ってしまった後なんですよね.
幸せな家族の風景を描いて心が温まっても,それと共に喪失感を強めてしまいますね.
私たちは彼らのこの後の結末を知っているからこそ,余計に彼らの風景に心を動かされ,幸福の中にも悲しみを感じるのかもしれません.
これが,ただこれまで蓄積された記録を振り返る行為にしか過ぎず,これからが決してないことを知っていても,アスランが確かにこの世で二人の人間に無条件で愛されていたということを確認せずにいられないのでしょうね.
「事実」と繋げてしまって申し訳ないのですが,この時点でのアスランは,もう自分で確認しようとはしないでしょうから.
どんなに幸せだった頃を振り返ったとしても,どんなに両親が優しかったことを思い浮かべても,それと一緒に周囲からの否定の言葉を思い出してしまうから,きっと傷付いて傷付いてしょうがないでしょう.
幸せな家族だっという事実と,両親が優しかったという事実を,この世界の誰にも打ち明けられないですから,それはもう事実ではないのかもしれません.
だからアスランは自分だけの事実を胸の奥深くに仕舞って,誰にも犯されないように,自分自身ですら塗り替えられないように忘れ去ってしまったわけですから,もう「自分たちは家族でした」というただの事柄以外確認しようとはしないと思います.
それこそが,本当に“失った”ことになってしまうのでしょうが….
両親がいない事実父が行った事実は永遠に変えられなくても,両親が好きだったという事実は失わずにいてほしいし,幸せだった頃の自分を取り返してほしいと思います.
それが多分,私が悲しい気持ちになりながらもザラ親子を書く理由なのでしょうし,あなた様がこの話にコメントをくださった理由なのかもしれません.
ありがたいコメントでした.
ありがとうございます!