長文倉庫

  • 宴会用マーダーミステリー風ゲーム制作のヒント

     マーダーミステリーをいくつかプレイし、自分でも作っている最中から「このシステムって、ゲームではなくコミュニケーションツールとして使えるのでは?」ということをずっと思っていた。具体的には、婚活パーティのような場面である(もちろんぼくは「婚活パーティ」には出たこともないし出る気も主催する気もないのだが、思ったのだから仕方がない)。
     さほど話したこともない、場合によっては初対面の人間が多いパーティにおいて、何かしらミッションを与えてやることで席移動とか自己紹介、あるいは相手の情報を引き出すといったことが少しはやりやすくなるのではないか。
     で、そんなことを思っている最中に、20名近い人数の忘年会をやることとなり、何か「究極にシンプルなマーダーミステリー」はできないかなあと考えていたところ、ふと閃いたのだった。
     大人数なのでキャラクターはすべて本人。名前だけでよい。で、各自が持っている情報はひらがな一文字。ミッションは用意してもしなくてもよい(一文字だけでも成立する)。
     まあ、みんな「???」と疑問符だらけですが、とにかく「すべての人と情報を交換してください」と言っておく。
     以下に仕組み(真相)を書きますので、やってみる、あるいは参考にしようと思う幹事の方、そんなことをするかもしれない各種宴会に出席予定のない方だけお読みください(まあ、仕組みを知っているからと言って参加できなくなるということもないと思いますが)。















    【解説】
     誰でもすぐ見当がつくと思いますが、要は全員が所持している文字を集めてうまく並べると文章になるわけです。ただし、犯人役を割り振られた人だけは嘘をつくよう指示されています。なので、そのままではきちんとした文章にならない。そこで、疑わしい文字を絞り込んでいけば犯人が分かる、という仕組み。
     難易度は、その文章、どの文字を犯人に持たせるかによって相当変わってくると思います。
     ぼくが作った文章は「はんにんだけがうそをついています。」というもの(人数が最後の方でちょっと増えたため「。」が入ってしまった)。この文章自体がヒントになっているわけですが、この文章はその会にふさわしいもの、しっくりくるものならなんでもよく(○○会最高!とか)、その場合「嘘をついているのが犯人」ということは別に言っておく必要があるかもしれません。犯人には「う」を渡し(この中では割とキーになる字だと思ったので)、「い」もしくは「ん」と嘘をつくよう指示しました。他にもある字なので、もし「ん」が多いのでは?と分かったとしても、容疑者が複数になるからです。
     このアイデアをあるゲーム・パズル作家に話したところ「十七文字のひらがなアナグラムはなかなか解けないですよ」と言われたのでヒントを用意することにしました。
     最初思ったのは席順で文字を配置する方法でしたが、こっちで指定して座らせるような会でもないのでこれは却下(そういう会ならありでしょう)。で、名前の五十音順にちゃんと並べれば文章になるようにしました。これは実のところ、並び順に気づいてしまうと直で犯人に辿り着くので痛し痒しなんですけどね。詰まっているようなら途中でヒントを出すとかの方がよかったかもしれません(ま、あんまりアナグラムが難しいとヒントを出すより前にやる気を失う可能性もあると思う)。

     今回は名札大のカードを使ったのですが、宴席での都合上、隣の人のデータ面がちらっと見えることは十分ありえます。で、犯人だけ文章が色々書いてあると(そしてそれを読んでいると)おかしく見えるので、できれば全員に何か適当な文章を書いておいた方がいいと思いました。全員をよく知っていれば、細かく一人一人に向けて別々の「ミッション」を用意するのも面白いと思うのですが、今回はシンプルに「○○の秘密を探り出せ」とだけ書いておきました(もちろん、正解の「秘密」などありません)。実のところこの「○○」は五十音順に次の人というだけなのですが、文字の並べ方をほのめかす意味と、とにかくその人だけでも話しかけないといけないなと思わせるためです。
     なーんだそれだけ、と思われた方も多いかもしれませんが、今回はあくまで宴会そのものがメインなので、それを邪魔しない程度のもの、興味がある人は考えるけれど考える気が起きない人はまあ別に考えなくても問題ない、そういうものを目指しました(賞品も罰ゲームもなし)。ただまあこれに近いシステムで、ゲームがメイン(あるいはある種の情報交換がメイン)となる作り方もできるように思います。
  • 表現規制について


    2013年06月02日(日)~3日(月)にかけてのツイートまとめ
    *この頃、児童ポルノ法が成立するかどうかみたいなところで表現規制に関する結構な議論が飛び交っていた。その時ちょっとまとめて書いたもの。長年考えはほぼ同じ。


     今回児童ポルノ法の件についてあまり何も言う気が起きないのはやはり、前回の都条例の件があったにも関わらず石原都政を継承する猪瀬が当選したこと、安倍自民党のみならず維新の会のような連中が票を伸ばしたこと。ことは政治の問題と言うより世の中全体が全体主義化を望んでるのだから仕方ない。とは言っても黙ってるのもなんなので、他の人が余り着目しない論点から少しだけ。まず、フィクションの中でアニメ、コミックのみが対象とされている件。都条例においては建前上「ゾーニング」の話だったわけで、影響を受けやすい未成年から、比較的目に留まりやすいコミック等を隔離しようという意図には、一応の合理性はあった。あるゆる他のエロと同様、「大人になってから楽しめ」ということだ。しかし、「フィクション」の「単純所持の禁止」となるとそれはもう児童虐待とは何一つ関係のない話。目的のすり替えで、何一つ合理性はない。
     そして、あらゆる表現規制に共通して言えることだが、「運用に実効性がないどころか、かえって害悪をもたらすかもしれない」ことを規制派は理解していないということだ。文章にしろ絵にしろ、ある種の表現がある種の人間に影響を与えることはもちろんあるだろう。それは“強い”表現だ。表現者はみな“強い”表現をしようと格闘しているはずだ。あえて毒にも薬にもならない表現をしたいやつがいるか? 人の心を動かすということはその人に影響を与えるということだ。しかしながら“強い”表現がどのような影響を人に与えるか、実のところ表現者にも分からないのが実状だ。ある種の表現が性犯罪者を作りだすというのなら、その逆だって可能なはず。違うだろうか?
    「人は安きに流れるものだ」という反論があるかもしれない。しかしだとしても、「所詮人とはその程度の生き物だ」ということでしかない。創作物に罪があるのではなく、人自身のうちにある、ということだ。
     漫画家が、児童虐待の恐ろしさを訴えるため、大人が子供をレイプする話を描いたとしよう。その子のトラウマを描き、このようなことをなくしていかなければならない、と訴えるような作品だ。さてそういう作品は今後描けなくなるのだろうか、それとも例外的に許される?
    「検閲」「言葉狩り」というのは硬直的なものだから、実際の運用上、アウトになるに決まっている。そして実際問題、そのような作品であってもレイプシーンがあればそこに反応する人間はいるだろう。ある種の人は「おぞましい」と思い、別の人はそこに快楽を見いだすのは珍しい話ではない。
     “強い”表現の与える影響は分からない、というのはそういうことだ。表現者の意図とは正反対の働き方をする可能性だってあるのだ。
      ぼくは以前から、差別用語を単純に言葉狩りすることについては抵抗してきたつもりだ。この間まで連載していた小説で実は、ひどい韓国人差別表現を大量に書いた。極めて歪んだ差別意識を持った、サイコパスの登場人物の内心表現として書いたのだから大丈夫だろうと思ったのだが、あいにく編集が法務と相談した結果、やはりまずいという判断で、ほぼそのあたりの表現は削除することにした。それが主眼ではないのでそれ以上抵抗しなかったが、もやもやは残る。
     ぼくは単純な言葉狩りには絶対に反対だしとことん抵抗するつもりでいる。言葉狩りを許せば「差別する人間」も出せなくなるからだ。そんな馬鹿馬鹿しい話はない。ただ今回は言葉狩りというには分量の多いヘイトスピーチだった。殺人鬼の内心であるとしても、作者の意見と思う可能性はゼロではない。今回のことはあくまでも出版社の自主規制だし、それがどうしても嫌なら違う会社に原稿を持って行くなり自分で電子書籍を作るなりすればよいと思っているから、「表現の自由」という問題ではない。しかし法律がそういった規制をかけてくる、まして過去の作品や自分の蔵書まで検閲するとなると別だ。
     児童虐待や性犯罪は、差別や貧困や戦争と同様、「現実にあること」「人間がすること」であって、創作表現によって「生み出された」ものでもなんでもない。まず現実があって表現があるのだ。そして、表現にはそのような「現実」を悪くする力もあるけれど改善する力もある、そう思っている。そして残念ながら、誰しもに一律にいい影響を与える表現などというものは存在しないし、つまりはいい影響を与える表現と悪い影響を与える表現を区別することもできない。検閲というものが、何か社会や文化にいい結果をもたらすなんてことはありえない、ということだ。
  • 死刑制度について

    mixiに十年前に書いたもの。ほぼ今も考えは変わっていないので転載。


     死刑制度について

     光市事件の判決が出た後、死刑制度廃止を望んでいらっしゃるあるマイミクの方の日記に、つい「死刑制度をなくすのは反対だけれど、もしなくすなら最低限終身刑の設置と復讐権を望みます」という意味のことを書き、何度かその方や別の方とコメントの応酬をしたのだけれど、どうも根底にある価値観が違っているようで、向こうの言葉も理解できないし、こちらの言葉も通じないようだった。
     思うに、死刑制度廃止を訴える人は、「絶対に人を殺してはいけない」「人の命はどのような人であっても尊い」といった価値観を持っているのだろう。いや、死刑制度存続を訴える人の多くもまた、その価値観には同意するのかもしれない。
     でもぼくは、実のところ「いかなる場合でも人は殺してはいけない」「殺人は究極の罪である」というふうにはそもそも思ってないのだ。
     もちろん、重い罪であることは確かだし、できることならそんなことはしたくないし、誰も人を殺さない世界が来たら理想的だ。
     でも人は――生き物はすべて、いずれ死ぬ。どうせ放っておいても死ぬものを、何年か何十年か寿命を縮める行為が殺人だ。人間のその後の時間とか可能性とかを奪いさる行為だとも言える。少し前に、「乳児の殺害は0.5人分」とブログに書いて炎上した準教授がいたらしいが、ぼくの考えを推し進めると、逆に赤ん坊を殺す罪の方が重い、ということにもなる(あんまりそうすっきりとは整理できないけど)。
     殺人という罪が大したことない、というつもりはなくて、それよりも、人間の尊厳を損なうような、たとえ生きていてもその後の人生を大きく狂わせてしまうような行為の方がよっぽど罪は重いし、許し難いように思う、ということなのだ。たとえば性犯罪などの最高刑を死刑にしても構わないと思っているし、それが無理でもせめて「去勢」という刑はぜひとも導入してほしいと思っている。
     そういう価値観の下に生きていると、死刑制度の何が「野蛮」なのか、犯罪者を抹殺することに対してなぜあそこまで強く抵抗を抱く人がいるのか、さっぱり分からないのだ。
     ある種の左翼系の人たちの中には(ぼくは自分も充分「左」だと思っているのだが)国家に対し殺人の許可を出すことに抵抗している人もいるようだ。冤罪を恐れている人も多い。でもそれはそもそも、警察権力とか司法制度、立法制度に対する不信感であって、「死刑制度の是非」とはまったく別の問題だとしか思えない。
     特に、「冤罪」。「冤罪の可能性があるかぎり、取り返しのつかない死刑という刑はなくしてほしい」という死刑廃止論者は多い。多いのだけれど、こういう言葉もぼくにはまったく説得力のある意見とは聞こえない。
    「冤罪」は「あってはならないこと」である。死刑制度があるかないかとは全く別に、捜査方針や司法制度の中で限りなくゼロに近づくよう考えていかねばならない問題である。「冤罪があるから」「死刑をなくせ」というのは本末転倒だし、一方また、「死刑じゃなくても冤罪は取り返しがつかない」とも思う。20年刑務所にいたけど冤罪が晴れてよかったね、死刑になってたら取り返しがつかないところだったね、というふうにはとても思えないのだ。その20年は返ってこないし、その間の精神的苦痛は想像もできない。たとえ痴漢であっても、冤罪を着せられ、多くの人に白い目で見られて会社をクビになって……などと想像するのは何とも恐ろしい。鹿児島の選挙違反事件で冤罪を着せられた人たちの悔しさもまた、相当なものだったろうと思う。
     少し前まで、まったく執行命令を出さない法務大臣もいたせいで、あんまり死刑は行なわれてこなかった。ちゃんと調べたわけではないが、事実認定(やったかやってないか)で疑いが残りつつ死刑判決が下り、なおかつ執行された例というのは、現行制度ではほとんどないのではないだろうか。冤罪の可能性をどれほど大きく見積もったところで数年に一人の話。交通事故死でいまだ数千人が死に、自殺者は三万人という現在、とても重要なポイントとは思えない。平沢貞通(さん、と言うべきか?)が九十五まで生きたのも、法務大臣に執行を躊躇わせるものがあったわけだ。一応は、様々なフェイルセーフ機能が用意されているということか。鳩山現大臣はこの半年足らずで十人執行したということらしいが、溜まり続けていたのだから彼を鬼畜呼ばわりするのは筋違いだろう(人間としては馬鹿丸出しだと思うけど)。これまでの法務大臣が法律を無視していたわけで、そんな人間はそもそも法務大臣職に就くべきでない。
     話がそれたが、「死刑」は確かに国家による殺人で、我々国民はそれに加担させられている。それを気持ち悪く思うのはある程度当然のことではある。
     でも、たとえば日本は「軍隊」を持たないと言いつつ人殺しの道具を山ほど購入して実質上の軍隊を育てているし、とても「防衛」になるとは思えないクラスター爆弾まで保有している。アメリカのイラク攻撃も支持し、協力した。日本国民はイラクでの大量殺戮に加担したわけだ。戦後日本で執行された死刑が全部冤罪だったとしても比べようもないほど、無辜の市民が殺された攻撃だ。
     ヨーロッパの多くの国やアメリカのいくつかの州では死刑を廃止し、国連は条約まで作っているようだが、本当に「人権」のことを考えて廃止しようとしてるんなら、犯罪者よりまず何の罪もない人を殺すのをやめろよ、と言いたい。町を爆撃しといて、何が「犯罪者の人権」なんだか。

     死刑廃止論者の論理のうちで唯一心を動かされるのは、刑務官のことだ。実際に死刑を執行しなければならない人間のストレスは、人によっては耐え難いものだろう。
     現在は確か、複数の刑務官が同時にスイッチを押して、誰が「当たり」を押したか分からないようになっているはずだが、だったらそこに遺族とか検察とか法務大臣とか一般見学者とかを混ぜてもいいのではないかと思う。死刑に犯罪の抑止力があるというのなら、もっと開かれたものでなければならない。
     現代人は、鶏が絞められるところも、牛が解体されるところも見ないまま、切り身になった肉、すでに調理された肉をおいしいおいしいと食べることができる。殺されるところを見なければ食べられないとしたら、今より遙かに多くの人間がベジタリアンになることだろう。でもぼくはベジタリアンになるより、他の命を奪って生きていることを直視できる人間になりたい。実際に屠畜に関わり、自分たちに代わって殺してくれている人たちがいることも忘れたくない。
     死刑もそれに似ている気がする。現在の死刑はあまりにも国民から隠され過ぎている。そのことがもしかすると、死刑存続派の増加に繋がっているという面はあるかもしれない。犯罪の報道は詳細にされるのに、死刑の実態は見えてこないからだ。

     コメントの応酬をしている時、死刑廃止派の方から「そうまでして誰かを死刑にしたいというメンタリティが分からない」と言われた。少し誤解されているようなのだが、「死刑制度を存続させること」と「誰かを死刑にすること」は別のことだと思う。死刑制度があるから死刑があるのではない。死刑制度がある中で、死刑になるような犯罪を犯す奴がいるから死刑になるのである。どのような罪が死刑に値するかは、個々の裁判でじっくり議論してもらえばいい。もし、多くの人が「これくらいでは死刑は重すぎる」と思うのであれば、少しずつ死刑は減っていくだろうし、死文化したって構わない。でも、死文化しても、万が一に備えて選択肢は残しておいてもらいたい。
     あるいは逆に、「死刑では足りない。カンタン刑を導入せよ」というふうに世論は変わっていくかもしれない。だとしてもぼくは大賛成ですけどね。選択肢が増えるのはいいことだもの。
     そういう意味で、コストの問題があるのかもしれないが、とにかく一刻も早く終身刑をまず導入するべきではないかと思う。終身刑とか、懲役二百年とかの判決が出せるなら、裁判官だってそっちを選ぶケースは多いのではないだろうか? 素人の裁判員たちならなおのことだ。刑務官と同様のストレスに素人が果たして我慢できるだろうか? 死刑判決は確実に減ると思うのだが、どうなのだろう。(2008.4.30記)
  • アベノミクスで自殺者数一万人減はトンデモの詭弁

     菊池氏は、科学者でもあるし、放射能のトンデモさんとも戦っていらっしゃるのだから、きっと統計データを見ることも、ぼくよりずっと慣れていらっしゃるだろう。正直、経済学も統計もぼくは決して得意ではない。しかし、興味を抱いてじっくり見れば、ある程度のことは分かる、つもりだ。
     菊池氏の物言いは、恫喝そのものだ。ややパラフレーズを許してもらいたいが、言っていることは「アベノミクスによって自殺者は一万人も減った」「民主党の政策は弱者に冷酷(つまりは民主党のままなら年間一万人余計に死んでた)」「国民の命を大切にするなら金融緩和を続けるしかない」ということだ。正確にそうは言ってないにしても、そのような「印象操作」であることは間違いない。これは、安倍政権を英雄と褒め称えるにとどまらず、民主党政権を殺人者呼ばわりする、極めて強烈な批判でもある。そんなことを言うからには相当の根拠、確信が必要だと思うのはぼくだけだろうか。
     上記のような言説がそれなりに確からしいと思われるにはどれだけの条件が必要だろうか。
     1)第二次安倍政権の金融緩和によって、経済弱者の雇用状況、生活状況が確かに改善しているというデータ。
     2)自殺者数が本当に一万人前後減っていて、それは雇用の改善や生活改善によると思われること。

     最低でもこの二点が揃わなければ、「アベノミクスで一万人減」「民主党時代に戻れば大変なことに」「経済政策の失敗は戦争よりも交通事故よりもたくさんの命を奪うからです」などという脅しは根拠のない「デマ」と言っていい。デマは菊池氏の一番嫌いなもののはずだ。菊池氏がもし、細かいデータを調べもせずに発言していたのなら無責任極まりないし、もしよく知った上であえて言い続けているのなら悪質だ。

     とりあえずまず、新しめのデータを見てみよう。
    https://mainichi.jp/articles/20180119/k00/00e/040/205000c
    自殺者2万1140人、8年連続減 未成年者は増 毎日新聞

    「年間自殺者数はバブル崩壊後の98年に急増して以降、3万人超が続いたが、10年から減少傾向に転じた。」
    「厚労省は減少について、景気回復や、自殺対策基本法制定(06年)以来、対策が進んできたためとしている。」

     減少は「10年から」、自殺対策基本法制定(06年)といった辺りにご注意。

     細かいデータはこちらの方が見やすいだろう。
    http://www.t-pec.co.jp/statistics/suicide.html
     最大のピークは平成15年(98年。小泉政権時)にあり、そこからほぼ緩やかに、そして平成23年(2011年。民主党時)あたりからやや急激に下がり続けていることが分かる。
     2008年のリーマンショックや2011年の震災、原発事故は社会に多大な影響を与えたはずだが、自殺者数からはあまり見えてこない。

     これだけ見ても、アベノミクスが効果があったにしろ、「一万人救っている」などという数字は過大にも過ぎるということは十分に分かる。「アベノミクスの効果が発生してから」と考えると、平成25年からとして五千人減っているということは言えるかもしれない(もちろん、減った数を累積すればそれなりの数になるが、それは自殺者数も同様)。

     それまでの減少傾向を無視すれば、「アベノミクス以降、五千人の自殺者減」はとりあえず統計上は言える。では、その自殺者減の理由は? 景気拡大のおかげ?

     そもそも、最初に「アベノミクスで一万人減」的な報道を見た瞬間に、直感的に「そんなはずないやろ」と思ったものだ。普通、思わないだろうか? 自分自身の周りはもちろん、どの街角アンケートでも「景気回復の実感はない」が多数を占めている。国全体の雰囲気が、民主党時と比べて劇的に何か変わった気もしないのに、三万人が二万人? 盛りすぎちゃう? と思ったものだ。一万人が実は五千人でしたと聞いたところでその違和感は変わらない。
     ちょうどさっきのページの下の方の円グラフに興味深いデータがある。原因・動機別自殺者数だ。一番多いのは「健康問題」で50%。そしてその次が「経済・生活問題」でがくんと減って16%。
     少々大雑把な言い方だが、「景気がよくなっていれば自殺しなくて済んだ人間」は自殺者数の16%に過ぎないということだ。しかも経済困窮者は「失業者」だけじゃない。就労不能者、高齢者は景気がよくなったってどうしようもないし(物価が上がればその方が困る)、そもそも自殺を思い詰めるほど職に就けないでいる人間は、少々景気がよくなったところで、就職できるのは最後の最後ではないだろうか。五千人減の一体何パーセントが景気拡大のおかげだと言えるのか、ぼくには分からない。

     そして、そもそもこれらの警察発表の統計はどこまで信のおけるものなのかという疑問を投げかける人もいる。
    https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/lifex/198569/1
    自殺者7年連続減に“トリック” 元刑事・飛松五男氏が解説 日刊ゲンダイ

     これは昨年の記事だが、
    「警察庁の「死体取扱数等の推移」を見ると、「変死体」の数は10年前には1万2747体だったが、一昨年は2万211体と約8000体増えている。比例するように自殺者数はこの10年間で8000人減っているのだ。」

     自殺対策基本法の内実は分からないが、自殺者を減らそう、という強い号令がかかっていることは間違いない。その圧力が、これまで自殺者としてカウントしていたようなケースを「変死体」にしてしまっている可能性は十分考えられる。そして、もしそうでなかったとしても、「変死者」が増えていることは間違いないわけだ。たとえ変死者が増えても、自殺者が減っているんだから社会はよくなっている――そんなふうに思える人がいるだろうか?
  • 菊池誠氏との対話から

     先日、ツイッターにおいて、@kikumacoこと大阪大学理学部物理学科教授の菊池誠氏とアベノミクスに関するやりとりをした。ぼくは元々、「議論」する気もなかったのでリプライでもなければ名指ししてのツイートではなかったのだが、ぼくの以下のツイートが発端ではある。

    よく「経済は命を守ることだ」「経済が弱くなれば弱者こそ死ぬ」的なことを言う人がいる。一見もっともらしいが、それ、ただのおためごかしだから(何度でも言う)。本当に弱者や失業者の心配をしている人は「福祉の充実」「セーフティネット」が最大の主張のはず。トリクルダウンなんてないんだから。
    22:26 - 2018年5月31日
    https://twitter.com/sukiyapotes/status/1002421139753189381

    消費税を8%にした野田政権は「冷酷」という意見を見て仰天した。累進税率を下げてきたのは何政権? 法人税を下げたのは? 消費税を導入したのは? 3を5にしたのは? ずーっと金持ちに甘く弱者に厳しく税制を変えてきたのは自民じゃないの?
    22:30 - 2018年5月31日
    https://twitter.com/sukiyapotes/status/1002422152383979520

     お互いフォローしていないので、RTを見て自分のことだと思われたらしく、リプライが来たので、仕方なく応じた(全部は引用しないので興味のある方はスレッドをどうぞ)。仕方なく、というのはこれまで見てきた限りの氏の主張から、恐らく議論は噛み合わないだろうという諦めだ。しかし、何と言っても相手は科学者で、論理的な思考のできる人のはずだし、被曝影響などにも詳しいらしい人だ。理解し合わなくともお互いの言い分くらい分かるものと思っていた。しかし残念ながら、菊池氏はぼくが一番どうでもいいと思っている金融緩和がどうしたという話をするばかりで、何らぼくの言ってることの核心を理解されないまま去って行ってしまった。
     結局何も分かってくれなかったと分かったのが以下のツイートだ。

    kikumaco
    返信先: @sukiyapotesさん
    自殺者数の変化をざっと見ると、安倍政権になってから年間1万人ほどの命が救われているようです。これを逆戻りさせていいか、というのがひとつの問題になると思います。逆戻りはまずいだろうと。リフレ左派が困っているのはそこです。リフレ政策を変えずに政権を変えたいわけです
    15:08 - 2018年6月3日
    https://twitter.com/kikumaco/status/1003398056417431552


    返信先: @kikumacoさん、@sukiyapotesさん
    デフレが人の命を奪うのはほぼはっきりしているので(失業率と自殺率には明確な相関があります)、「デフレ誘導はやばい」のです。デフレ誘導は経済弱者に対して冷淡な政策です。そこまではわかってるわけです。安倍政権に批判的なリフレ左派は困っていますが、今金融緩和をやめるのはまずい
    15:13 - 2018年6月3日
    https://twitter.com/kikumaco/status/1003399386557079552

    返信先: @kikumacoさん、@sukiyapotesさん
    「安倍政権を支持したいわけではないけれども、金融緩和をやめるわけにはいかない」と困っている人たちがたくさんいるのですよ。今の日本では経済政策の失敗は戦争よりも交通事故よりもたくさんの命を奪うからです
    15:17 - 2018年6月3日

     これらに対し、ぼくはこうツイートしたが、話にならないと思われたのか、答に窮したのか、いずれにしろ返答はない。

    返信先: @kikumacoさん
    ぼくは最初から、そういう「数字上の人の命」を盾にした物言いに納得できないから「おためごかし」だと言っているのです。「失業率と自殺率に明確な相関がある」。当然あり得る話です。(自殺者減はアベノミクスと関係ないという話もありますが、ここでは置いておきます)。
    4:06 - 2018年6月4日
    https://twitter.com/sukiyapotes/status/1003593860293918722

    @kikumaco 自殺者の自殺理由はそれぞれですし、失業者の失業理由もそれぞれで(す:脱字)。もし、失業した人の多くが、ただそれだけの理由で自殺してしまうとしたら、そんな社会には景気がどうこうとは別の問題があるとは思いませんか? 経済対策と失業対策、失業対策と自殺対策は全部別の問題です。
    4:09 - 2018年6月4日
    https://twitter.com/sukiyapotes/status/1003594563334762497

    @kikumaco 就職したけど職場の悩みで死ぬ人は? ブラック企業で過労死する人は? 経済対策は命の問題だ、というのなら、ブラック企業対策も命の問題です。ブラック企業を締め上げて閉鎖に追い込んだら過労死は減るかもしれないですが失業者は増えるかもしれませんね。
    4:12 - 2018年6月4日
    https://twitter.com/sukiyapotes/status/1003595327369240576

    @kikumaco どれほど景気がいいときでも、失業者はいるし自殺者もいますよ。景気がいいのに失業する人間、自殺する人間は「自己責任」だからしょうがないんですか? またそもそも景気が悪いのはすべて政府のせいなんですか?
    4:18 - 2018年6月4日
    https://twitter.com/sukiyapotes/status/1003596899281076225

    @kikumaco そして、一番解せないのは一応は門外漢(ですよね?)である菊池先生にも分かる、これしかないという経済政策を、どうして安倍以外ではできないとお思いなのかということです。安倍が考えた政策ですか?石破になったらやめちゃう確信があるんですか?絶対正しいのに?
    4:21 - 2018年6月4日
    https://twitter.com/sukiyapotes/status/1003597586589089792

     整理すると、ぼくがずっと問題視していることは二点。一点は、「景気をよくしなければならない」と言いたいがために、自殺者数一万人減を持ち出す詭弁。そしてもう一点は最後の質問、「なぜその政策が安倍政権でなければできないのか?(できないと思うのか?)」を一言も言わないことだ。総裁自身に様々な問題があれば、それを下ろしてすげ替えるのは与党が率先してすべきことであるはずだ。たとえ今内閣総辞職したとして、野党が政権を握ることなどとうていあり得ないのに、一体なぜ野党批判を繰り返すのかまったく意味が分からない。そしてまた、たとえ今非常に景気がよいというのが事実で、自殺者も減る幸福な社会が来ているのだとしても、そのことは今のような政治の私物化、公文書改竄といった犯罪や犯罪的所業を帳消しにするものでも何でもないというごくごく当たり前のことも分かっていらっしゃらない様子だ。自殺するかもしれない人が一万人も救われたのだから、公文書改竄での一人二人の自殺や、レイプ犯が逃げ延びることは些細な問題だ、とでも思っていらっしゃるのだろうか。もしそうなら、もし安倍が一人二人自分の手で誰かを殺していたとしても、総理を続けさせるべきだと、そう思われるのだろうか。

     しかしまず、最初の問題「アベノミクスで自殺者数一万人減はトンデモの詭弁」について次項で書いてみたい。
  • 「シン・ゴジラ」感想

    『シン・ゴジラ』は特撮映画として、怪獣映画として、“娯楽映画”として一級品であると思うし、様々な美点を備えていると思いはするものの、世間の多くの人のように言葉を極めて「大傑作」とは喜べない自分がいる。当然、似たような感想を漏らす人も多いだろうと思っていたものの、案外そういった評を見かけない(そんなに知らない人の評まで漁っているわけではないのだが)。思ってはいるけど“ネタバレ”になるのを恐れ差し控えているだけなのか、それともぼくのようには感じない人の方が多いのか。(自分の観たい)人間ドラマがない、こんなのはゴジラではない、その他諸々この映画にひどく否定的な評もぼくの思いとはまるで違う。そんなわけで「映画評」というものとはいささかずれるにちがいない文章だが、少し長く書いてみることにした。

     まずは「娯楽映画としての」感想から。
     平成ガメラ('95~)における台風情報を模した「ガメラ情報」は、当時リアルタイムであれを観た人間は「ああ!」と感嘆したはずだ。そしてまた自衛隊(もしくはそれに準ずる存在)を、単なる噛ませ犬でない、全力で怪獣を撃退しようとする存在として描いたのもあのシリーズが初めてではないだろうか(そのことを政治的な意味と捉えて批判する人間もいるようだが、バリバリの護憲派のぼくから見てもそれはピント外れだと思う)。一方またテレビドラマシリーズ「踊る大捜査線」('97~)が見せてくれた「公務員である警察官」「役所である警察」像。
     これらは全部、「シミュレーションとしてのリアル」であり、「そうか、役所ってそうだよな」というような情報、知識そのものが持つ面白さであり、ぼくは便宜的にそれらをまとめて「あるあるのリアル」と呼んでいる。「あるあるのリアル」はもちろん、単なる「あるある」「常識」であってはならない。今まで無批判に再生産されてきたエンタテインメントの中の嘘を暴き、「そうか、ほんとはそうだよな」と思わせる説得力がなければならない。
    『シン・ゴジラ』は、これらの作品が目指した方向性、面白さをとことん煮詰め、シミュレーションして作られた現在最高峰の「あるあるのリアル」を備えた怪獣映画である。
     ただし「あるあるのリアル」を積み重ね、たくさん備えているからといって、ではそれは「リアルな映画」になるかというとそうではない。切り捨てられたリアルも山ほどあるわけだし、何よりこの映画の演技は、大杉蓮、國村隼といった超名バイプレイヤー数人を除けば、ほぼ全員大根――というかステロタイプな演技を強制されていて可哀想なくらいだ。冒頭の海上保安庁のビデオといい、アクアラインから避難する若者たちの言葉といい、POVの、本来ならもっと迫真性、ドキュメンタリー性があっていいところでの素人の棒読みは少々白ける。
     そして「役人は早口だから全員早口で喋ってくれ」と言われたらしいが、とにかく全編、難しい言葉の頻出する長台詞を俳優たちは誰一人噛まず、言い淀まず、聞き返さず、ああ、台本通り喋ってるんだなあ、という芝居が続く。それは「ある意味リアル」かもしれないが、別の視点から見ればまったくリアルではない。
     これは演技を気にしてはいけない映画なんだな、それならこちらもそのつもりで観よう、と思い最後まで観て思ったのは、これは「最高に金をかけた自主映画」だということだ。「アニメ」という意見もあるようだが、ぼくは全然アニメっぽいとは思わなかった。これはまさに自主映画で、そして金をかけただけのことはある、「最高に面白い自主映画」になった。「一点突破」は自主映画の特徴でもある。オタクがその情熱を一点に込めて作った映画なのだから、熱狂する人がいる一方、「思ったものと違う」とがっかりする人がいることも当然だ。

     さて、「最高に面白い」と言ってしまった。もちろん面白い、この映画は。ぼくの現時点での怪獣映画ベストワンは『ガメラ2 レギオン襲来』だが(2位以下は難しい。金子ゴジラ、ジャクスン版『キング・コング』あたりか)、観る前はもしかしたらこれらを抜いてしまうような傑作ではないかと期待していた。
     しかし、映画としての出来の良さ(演技除く)、ヴィジュアル、CG技術、あるある的面白さ、それらがあってなお、あるところから興奮は冷め、映画に入り込むことはできなくなり、傍観者のように見るしかなかった。
     放水車が出てきたあたりからである。
     メタファーという言葉は嫌いだが、ああいうのは多分メタファーとすら言わないと思う。「そのまんま」である。「現実の模倣」だ。あそこまでは、「ゴジラは○○のメタファーだ」「いや、そんなこと関係ない。ゴジラはゴジラだ」と解釈の問題で逃げられたのが、あそこで日本人は否応なく現実に引き戻されてしまう……と思ったのだが、そんな感想を目にしないところを見ると、そんなふうに感じたのはぼくだけだったのだろうか。それとも、多くの観客は、現実と照応してもなお、あそこで喝采を叫べる、ということなのか。
     血液凝固剤を経口投与、それもあのような体勢で、というのは、いくら理屈をつけようとシミュレーション的にもドラマツルギー的にも無理のある作戦だ(怪獣映画的には全然OKのレベルだが)。あんなふうにうまく倒せるか(というか、なぜあれでうまくいくと思えたのか)は目をつぶるとしても、あのように一応生物的な特徴を備えたゴジラに対し、「経口投与」で「血液を凝固させられる」となぜ考えたのかという不思議。特殊な胃で消化されるかもしれないし、そもそも熱線を吐ける器官に注ぎ込んで、薬が効くと期待するのも無理がある。血液を凝固させたいなら、なんとしてでも「注射」に近い方法を試みるのが普通だろう。米軍の爆弾で傷を負わせることはできたのだから、普通ならまずその道を探る。
     勘違いしないでもらいたいが、そういったあら探しをして「だからよくない」と文句を言うつもりはない。ぼくが思ったのは、「多少無理のある設定であっても、どうしても放水車のあの場面を撮りたかったんだな」ということだ。他の倒し方ではなく、あの方法でゴジラを倒したかったのだろう。そしてぼくはそこに、複雑な思いを感じざるを得ないのだ。

    『HEROES』('06~)というアメリカのドラマがあった。ぼくは実はこれを三話だけ観て以降観るのをやめてしまったので、全体としてどういう話かは知らない。世界中に突然ある日超能力者が生まれはじめ(覚醒、というべきか)、そのうちの一人が予知能力によって近い将来のある時点でアメリカ(ニューヨーク?)で起きる、911を想起させる高層ビル破壊シーンのヴィジョンを観る、というのが始まりだ。ああ、これを超能力者たちが協力して阻止する(もしくは敵味方に分かれて戦う)話なんだなと予想し、それが当たってるんだとしたら、ひどく幼稚な“救い”のドラマだな、と少々観る気が失せたものだ。超能力者によって911がなかったことになってハッピーエンドと言われても、現実はそうでないのに、物語を楽しめるものだろうか、と疑問に思ったわけ。(実際そんな話なのかどうかは知らないし、三話でやめたのはマシ・オカを見続けることに耐えられなかったことの方が理由としては大きいので、そんな話じゃなかったとしても「面白いから最後まで観ましょう!」とか言わないでね)
     事件から数年経つと、当然の事ながらフィクションの中の世界も「911後の世界」を少しずつ描き始める。あれだけ大きな社会的影響を及ぼす事件ともなると、そこに触れないことが逆に不自然になってもくる。『CSI:NY』('06~)の主人公は妻を911のテロで失っている。単なるキャラ付けでしかないのだが、たくさんの人が亡くなった事件をフィクションで扱う際には、そういうふうに背景として少しずつ取り入れていくのは慎重な選択だ。正面切って扱うなら、それは『ユナイテッド93』('06)のようなドキュメンタリー色の強いものとなるだろう。事件を中心的モチーフにしつつもまったく別のフィクションに昇華できるようになるのは、クリエイターだけでなく観客の側にも咀嚼し呑み込むだけの時間を要するのではないか。
     911がアメリカ人にとって衝撃的であったと同じように、もしくはそれ以上に東日本大震災と福島原発事故は日本人全体に大きな傷をもたらしたし、そして――ここが重要だが――今もそれはずっと続いている。911には明確な犯人――実行者がおり、またその首謀者と目されるグループに対し、アメリカはとことんまで“報復”することができた。グラウンドゼロはメモリアルパークとなった。着々と「過去」として乗り越えつつある(それらの過程すべてを肯定する気はまったくないし、今も続くテロや争いの源流が911にあることはもちろんだ)。一方、東日本大震災では被災して仮設住宅に住んでいる人がまだ大勢いるだけでなく、福島原発の事故によって故郷を追い出された人々もいる。そしていまだ汚染水を垂れ流し続ける原発は、溶け落ちた燃料棒の正確な位置すら分からず、収束の目処も立っていない。そして何より、驚いたことにあのような事故を経た後も、日本の原子力行政はほとんど変わらず、再稼働はもちろん、新設の話まで復活してきたということだ。
     全然終わっていない問題だ、という決定的な違いがここにはある。
     自然災害の多い日本において、そもそも怪獣は災害のように扱われる。ガメラ情報がテレビにL字で流されるように。
     東日本大震災で原発事故が起きていなかったなら。あるいは、原発の事故が起きていたとしても、何とかうまく収束でき、着々と廃炉作業が進んでいるなら。あるいは、原発はなくそう、という強いメッセージが政府から、そしてこの映画からも発信されているなら。ぼくも少しはあの放水シーンで悲しくならずに興奮できたかもしれない。

    『シン・ゴジラ』は円谷英二のいない世界であるらしい。それは別として、あの世界では東日本大震災は起きただろうか? 原発事故は? もちろん、起きていないだろう。あれは「311後の世界」でもない。津波と原発の両方のメタファーをしょったゴジラが、原発事故の起きていない日本の、東北でもなく福島でもなく東京にやってきて、東京だけを滅茶苦茶にしたあげく優秀な日本人政治家と科学者によって沈黙(撃退ではない)させられるパラレルワールドの物語だ。それはあまりに似ていて、あまりに違いすぎる。映画が、含みを残しつつもやはり一応のハッピーエンドを迎えた時、現実に取り残されたぼくは一体どんな感想を抱けばよかったのだろう?


     多分どうでもいいこと。
    1)長谷川博己と石原さとみが二人で立川のモノレール跡(ってテロップが出たような気がする)を歩くシーン。最初近くにあったカメラがどんどんどんどんどんどん引いていき、二人は右下の端っこに映るだけになるシーンがあるのだが、あれは笑うとこなの? 意味があるの? 大写しになるモノレールに何かあるのかと二回目もじっと観たのだけど何も見つからなかった。
    2)血液凝固剤を量産するために色んなプラントを総動員させなきゃいけません、ってとこでかかる威勢のいい音楽。ゴジラの音楽もエヴァの音楽も大体どこも合ってると思ったけど、あそこだけはちょっと選曲間違ってる気がした。あれもアリモノ?
  • “鳥肌”が立つ

     以前、mixi日記に書いた文章。

     昨日「ジャポニカロゴス」のスペシャルで「鳥肌が立つ」という言葉の正しい使い方、というのがクイズになっていた。もちろん、「怖いときに使うのが正しくて、感動したときとかに使うのは間違い」というのが「正解」だ。以前佐野洋の「推理日記」でも、誰かの作品中の表現に対し同様の文句をつけ、違和感を表明していたのを覚えている。
     しかしそもそもこれは「コトバの間違い」なのだろうか。「鳥肌が立つ」というのは慣用句と言うよりはむしろ直接的表現であって、多少の誇張が含まれることはあるにせよ、実際に起きる現象だ。「足が棒になる」というのとは似てるようで違う。恐らくは、現代日本では大半の人が「感動して思わず鳥肌が立った」というような表現に対し、「実感として」納得すると思うのだが、「間違い」と指摘する人はそうではないのだろうか。
     もしそうだとすると、日本人の大半は昔は「感動して鳥肌が立つ」ことはなかったのだろうか。
     それともある時点で「すっごい感動すると鳥肌が立つよね」という発見がなされ(「あるある」みたいなもんか)たのか。
     あるいはまた、少数の人々におけるそういう「発見」(もしくは「比喩」)が広まった結果、コトバによる支配が起きて実際に鳥肌が立つ人が増えたという可能性も捨てきれない。
     うーん。どれでしょう?

     ――2006.4.16
  • “イスラム国”について思うこと


    「“イスラム国”は国ではない」とか「彼らはテロリストで、単なる犯罪者集団に過ぎない」といった当たり前のことをわざわざ言いつのる人たちのことがよく分からない。
    「“イスラム国”という呼称のせいで国だと勘違いしている人」に単なる事実として間違いを訂正しているのなら分かるが、とてもそうは思えないのだ。
    “イスラム国”がもし国家としての体裁を整えていたらどうだというのか。国家のやることなら「テロ」や「犯罪」ではなく、「戦争」だから仕方ない、とでもいうような論理(心情?)が透けて見えて仕方ない。

     今回、二人の日本人が拘束され、殺害されたのは間違いなく悲劇的であるし、理不尽で犯罪的なことではある。日本政府、ヨルダン政府を脅迫し、挙げ句の果てに殺害映像をアップするというのは誰にとっても残酷だし、ショッキングであるのはもちろんのことだ。
     ――でも、それでもなお、二人の命は二人でしかない。戦闘員であるヨルダン人パイロットを入れても三人だ。
     イラクでは、アメリカの攻撃以来、十三万人を越える市民、戦闘員を含めれば二十万人が殺害されている。(https://www.iraqbodycount.org) 大量破壊兵器を持っていると難癖をつけて一方的に攻撃を始めたのはアメリカだ。そしてその攻撃を(なぜか)世界で真っ先に支持したのは、他ならぬこの日本。自民党、小泉政権だ。
    “イスラム国”はテロ集団で許せない、と言う人は、その六万倍の激烈さでもってアメリカを非難しなくてはならないのではないのか? 人の命の値段が国によって違うことはいい加減分かっているけれど、それでもひどすぎやしないだろうか?
    「“イスラム国”は他にも沢山のイラク、シリアの市民、外国人ジャーナリストを殺したりしている」? もちろん、六万倍という数字はいくらでも修正したって構わない。そもそもイラク攻撃がなければ“イスラム国”もなかったろうという根本的なことに目をつぶって、どちらがより多くの市民の死に責任があるのか貸借対照表を作っても構わない。いずれにしても、“イスラム国”をテロ集団と呼ぶならアメリカはテロ国家と呼ばなければダブルスタンダードであるということに変わりはない。
     ブッシュからオバマ政権に代わったとき、「イラク攻撃は間違いだった」と認める声明は一応あった。一応。――では日本は? 間違いを犯したのはアメリカであって、それを真っ先に支持しただけの日本は何の関係もなかったというのだろうか。少なくとも政治家、評論家、当時イラク攻撃支持を表明した人たちから反省の弁、総括の言葉を聞いた覚えはない。

     911の直後、アメリカの作家スーザン・ソンタグは「ニューヨーカー」にテロリスト擁護と取れなくもないコメントを書いて大バッシングを浴びた。当時何で読んだのだったか思い出せないが、昨年の朝日新聞での高橋源一郎の引用がネットにあったのでそちらから孫引きさせてもらう。(http://digital.asahi.com/articles/DA3S11367801.html
    『テロの実行者たちを「臆病者」と批判するが、そのことばは彼らにではなく、報復のおそれのない距離・高度から殺戮(さつりく)を行ってきた者(我らの軍隊)の方がふさわしい。』(原文はNewYorkerのサイトで今も読める)
     当時もまったくその通りだと思ったし、今回も同じことをずっと感じている。ここはNewYorkerではないし、世界的に有名な作家でもないし、911と人質殺害ではニュースの大きさも違うが、それでも正直こんなことを書くと炎上するのかもなとは思う。似たような意見をネットでもまったく観ないということもあり、自分の感覚は世間とは相当ずれているのかもしれないし。
     ソンタグがあのコメントを書いたのが911のわずか三日後でしかないというのは改めて知って衝撃を受けた。それ以前から考えていたことを、あの事件のその先を見通した上で、激烈な反応があることも承知で書いたのだろうから。そういう意味で、高橋源一郎が「同じような事件がこの国で起こったとき、同じような感想を抱いたとして、ソンタグのようなことが書けるか、といわれたら、おれには無理だ。そんな勇気はない。」という感嘆は恐らく半ば本気で半ばは謙遜だろうが、ものすごくシンパシーを感じる。

     残虐さ、ということについても考えさせられる事件である。
    “イスラム国”のやることは現代日本で安穏と暮らす我々にとって確かに残酷でショッキングではある。「卑劣」「残虐」「許し難い暴挙」……すべてもちろん我らが安倍総理も繰り返しおっしゃるとおりである。
     しかし、怒りで目を眩ませる前によく考えろと言いたい。もっとも犯罪的なことは、二人の(ほぼ)無関係な市民の命が奪われたことである、と。殺し方が残虐かどうかとかその光景を撮影して全世界に公開したとか、彼らの命を盾に無茶苦茶な交渉をしようと脅迫してきたとかではない。二人の市民が殺害されたことをまず中心に考えなければならない。
     首を斬って殺すのは残酷? なるほど。戦車で轢き殺すのはそうではないのか。ミサイルで一瞬にミンチにされる方がましか? 劣化ウランに蝕まれてガンになるのは仕方ない? ――残念ながら、これもまたアメリカが彼の地で行なってきたことと比べて特別どうということもない。
     首を斬ったり生きたまま火をつけるのは「分かりやすい」だけに恐ろしいことだが、何より我々が恐怖している理由は、「その映像が公開された」ということに尽きる。彼らが同じ殺し方をしたとしても、黙っていれば我々は恐怖しようがない。分からないのだから。あるいはもう少し言うと、「その行為を撮影し、世界に見せようというその神経」に恐怖しているとも言える。かつて我々が、小学校の校門に置かれた児童の首に戦慄したのと同じだ。これは世界を相手にした劇場犯罪なのだ。
     しかし、人間には歴史の知識も想像力というものもあるのだから、見せられていない光景だってある程度は考えれば分かる。二人の人間を拉致して自分自身の手で殺す行為と、何十人かの戦闘員を殺そうと爆撃して顔も知らない市民を数十人、数百人まとめて殺す(そしてその映像はあっても隠しておく)行為のどちらが本当に残虐か。全面降伏させるために広島長崎に二発も落とされた原爆は二十万人以上を殺し、その後も長く続く地獄を多数の人に味わわせたが、「テロ」ではないのか(ないんだろうな、多分)。
     残虐さの基準はもちろん、「命の価値の差」とも関わってくる。
     彼らはいうならば「野蛮」である。それは間違いない。生まれた時から紛争の連続で、沢山の暴力的な死にまみれ、またその手を血に染めてきた人間がほとんどだろう。自分自身もいつ死ぬか分からない。正真正銘の「常在戦場」だ。戦場にいる人間が人の命に対してシニカルになるのは当たり前のことだ。彼らに、他殺体の一つも見ることのないのが普通の国の人間が「命の大切さ」を説いたって通じるわけがないし鼻で笑われるだけだろう。生きている時代も、同じだと思わない方がいい。公開処刑が市民の娯楽だった時代の人間に、「悪趣味だ」と言っても仕方ない。日本人や欧米人の先祖がかつてそうであったのと同様、彼らはそうありたくて「野蛮」であるわけではない。人間は、そのような環境におかれればいくらでも「野蛮」で「残虐」になれるものだということだ。

     そしてまた、「貧者の核爆弾」というキーワードもずっと頭から消えない。これは核兵器よりはローテクで安価に作れる生物化学兵器を指した言葉だが、それらは現在は一応国際条約によって禁止されている。特別に危険視する理由はもちろん分からないではないが、「貧者の核爆弾」を、多数の核爆弾を所有している大国が(ばかりではないが)集まって「あれはみんな禁止ね!」と決めている光景のなんとグロテスクなことか。(そしてもちろん核兵器全面禁止条約は一向に成立しない)
     今回の「テロリスト集団」「犯罪者」「卑劣極まる」といった呪詛のような言葉からは、まったく同じ意志を感じる。「弱いものに武器を持たせるな」という意志だ。
     生物化学兵器が「貧者の核爆弾」なら、テロ行為(+インターネット)は「貧者の空爆」と呼ぶのがふさわしいかもしれない。たった三人殺しただけで、一体どれだけの効果を世界に――少なくとも日本に――与えたことか。そしてなんとも見事にうかうかとはまりこんでゆく安倍ニッポン。

     どうにもうまくまとまらないが、とにかく「野蛮人」に「君たち、野蛮なことはやめなさい!」と言ってもどうにもならない。彼らがそのような生活から抜け出さない限り、また、新たにそのような「野蛮人」が育つ環境をなくさない限り、永遠に彼らは生まれ続ける。
     彼らに報復をする行為は、単にこちらが「野蛮」の土俵に降りるだけのことだ。ずっとアメリカがやってきた「テロとの戦い」がまさにそれだ。
     今回の安倍政権の対応についてごちゃごちゃ文句を言う気は毛頭ない。恐らく小泉は何の覚悟もなくイラク攻撃を支持したのだろうが、日本人はあの時からずっとその戦いに「参戦」しているのだと思っている。911の当時、一瞬は日本国内でのテロの可能性についても心配する空気はあったはずだが、あっという間にそんなものは忘れられてしまっていた。今回のことで、自分たちが勝手に「参戦」させられていることは全国民が理解したはずだ。この戦いを続けるのか、それとも降りるのか。
     降りる、というのはつまりは、まずは「完全なるアメリカ追従」をやめるところから始めるしかない。イスラム諸国に、またパレスチナにも人道支援を行なっている、どちらの敵でも味方でもない、と本当にアピールしたいなら、まずアメリカから「距離を置く」ことだろう。安保を破棄する必要はとりあえずない。安保で取り決められたことだけは守ればいい。しかしたとえばイスラエルの非難決議に棄権してるようでは話にならない。(たとえアメリカの拒否権で議決されないことが分かっていても、だ)「集団的自衛権」のことなんか忘れろ。
     ……まあしかし、そんなことは無理なんだろうな。『日本はなぜ基地と原発をやめられないのか』を読んで、日本が思っていた以上にひどい属国状態だと分かってしまった今、どんな政権にも期待できないし、ましてや安倍政権では……。
     戦いを続ける、という選択肢を選んだ場合は、大国同士の戦争・領土侵犯といったリスクは低減するかもしれないが(そもそもこの70年巻き込まれていない)、テロのリスクは相変わらず続く――恐らく永遠に――ことを覚悟するしかない。
  • 『殺戮にいたる病』あとがきを一部抜粋

     以下は1992年9月に発行された『殺戮にいたる病』四六版にのみつけられた「あとがきにかえて」と題した文章の一部である。四六版は確か7000部くらいで重版もしていないので余り多くの目には触れていないだろう。なので、21年近くも経ってまだ同じことを言わねばならないのかという徒労感をこらえて書き起こしたいと思う。(データがないので)

    ----------------------------------------------------------------
    (前略)

     ある朝、新聞を開くと宮沢りえの全身ヌードが目に飛び込んできてのけぞった。もちろん去年話題になったあの写真集の全面広告である。彼女がヌードになったことにはさほど驚かなかったが、それが全国紙に載ったことには心底驚いた。
    「わいせつ性がないと判断した」から広告掲載を決めたのだという。どこかの主婦が、「いやらしくないから息子に買ってやりました」と発売後に街頭インタビューで答えていた。
     そういった下らない発言の洪水の中で、唯一救われたのは、写真家の荒木経惟氏の次のような言葉だった。「ワイセツじゃない写真なんか撮りたいとは思わない」
     写真芸術にまったく理解のないぼくはその意味を曲解しているかもしれないが、とにかくこれには頷かされたし、心を動かされた。実際荒木氏の、静物ばかりを撮った写真集を見ても、その思いは感じ取れたような気がする。花が、靴が、それらのある空間そのものが何か“ワイセツ”なものとして切り取られていた。人を撮るのでなくとも、やはりそこには“ワイセツ”な視点があるからなのだろう。素晴らしいことだ。人間を主題としているのに、どうして猥褻なものをそこから切り離して考えることができるのか、そのことの方がぼくには不思議だ。芸術か「わいせつ」か、とさんざん昔から論争されてきたが、それら二つが排他的なものであると、一体誰が決めたのだろう。その猥褻性ゆえに芸術たり得るものは、存在しないとでもいうのだろうか?
     宮沢りえ写真集に先立って、毎度おなじみのヘア問題というものもあった。篠山、荒木両氏の作品で女性の陰毛が見えているというので、両氏は厳重注意を受けたのだった。その時の審査委員の中には、「芸術性の高いものについてはよいのではないか」「篠山氏のものには芸術性が感じられた」と発言した人もいたそうである(猥褻性の低いきれいなヌード=芸術性が高い、という短絡的な図式が見えるように思うのはぼくだけだろうか)。 
     この時ぼくは心底ぞっとした。ヘアが見えたの見えないのなどと恐るべき低次元の論議をしているような連中が、創作における「芸術性の有無」を判断するような社会が到来したらどうしよう、と思ったのである。オーウェルの未来社会みたいなものではないか。そんなことになるくらいなら、「ヘアは駄目」と割り切ってくれたほうが遙かにいい。その判断をするだけなら、想像力はなくても視力さえあれば誰にでも務まる。ごくたまに見逃されて世に出たヘアには、われわれ馬鹿な男達が喜々として飛びつくことだろう。平和である。

    (後略)
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     もう一度言うが、この文章は21年前、ぼくが30の頃に書いたものだ。前後は長すぎるので削ったが、当時と今、状況はほとんど変わっていないし、それに対する意見も変わっていない。
  • 秘蔵のスパム集

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    SUB:白姫女子校保健室からのおしらせ

    この前の妊娠検査について
    県立白姫女子高校保健室からのお知らせです。

    間違って受け取った方は、
    お手数ですが、破棄してください。
    お詫び致します。

    該当する人は
    下記リンクより入ってお知らせを確認して下さい。
    (ここに大量の文字列のくっついたリンク)
    (2005.1採取)
    ---------------------------------------------------
    Sub:県立青葉女子校新入学生への連絡【保険室より】

    ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
    新入学生の皆様へ
    ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

    新入学生の皆様、合格おめでとうございます。
    当校では、健康に学業を推進していただくために
    入学式の前に、性病等の健康診断を実施致します。

    実施日:    3月23日(水)
    受付開始時間: 午前10時~
    受付場所:   校門正面玄関前(銅像の有る付近)

    当日の服装ですが、
    必ずフロントホックブラを着用してきて下さい。
    乳ガン検診と内診が有ります。

    当日の注意ですが、
    当日朝の朝食では、必ず飲み物を十分摂取してきて下さい。
    コップ一杯(150ml)の検尿があります。
    当然ですが、前日の「いけないこと(H等)」は控えてきて下さい。

    ↓詳しい事は下記のサイトで案内しています↓
    (ここにアドレス)
    (2005.2採取)
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    某国立大医学部ニ年の秋山都子と申します。
    あなたにお願いがあってメールしました。私は今、「精嚢分泌液に内服されるセリンプロテアーゼ(主にPSA[Prostate-specific antigen])の空気接触に伴う状態変化について」という課題についてレポートを書かされているのですが、書物だけで調べてもなかなか進めることができないでいます。
    私はこれまで20年間男性経験が一度も無かったため、精嚢分泌液、つまり精液に関する実地的な知識に乏しいのです。(地元の高校に居る間は父が厳しく、男性と交際する機会がありませんでした)
    それに伴いまして是非一度、成人男性の本物の精液を採取し、この目で確かめた上でレポートの参考にしたいのです。
    もしも差し障り無ければ、あなたの精液を採取させてもらえないでしょうか。
    決して肉欲的な意味でのお願いではありませんので採取方法は主に手や口を使うのみとさせて頂きますがご了承くださいせ。
    (とはいえあなたが私に対して女性的な魅力を感じて頂けなかった場合、採取行為が不快に感じられてしまう恐れもございますので、ご希望に応じて予め私の顔写真などを送付させて頂くことは可能です。ちなみに私の身長は157cm、体重44kgです)

    場所はどこかホテルの一室を取ろうと考えております。交通費、ホテル代、お礼としてのお食事代程度しかこちらでは負担できませんが、(何分学生の身分なので申し訳ありません)
    ご都合を付けて頂けないでしょうか。
    お返事を頂ければ、今後のスケジュールなどを追ってご連絡差し上げます。
    それではどうかご検討くださいませ。
                                      秋山都子
    (2005.12採取)
    ------------------------------------------------------
    Sub:お口で占いさせてください…
    初めまして、私は27歳で竹下歩美といいます。
    実は私、占いの勉強をしており、貴方を占わせて欲しいのです。
    ただ、その占いというのが率直に言いますと男性器を口に含み、こねくり回さなければ出来ないのです。
    突然、こんな話しをされて引いてしまうかもしれませんが真実なんです。

    それは1年前の夏の出来事なのですが、当時付き合っていた彼とエッチしているときに、
    「歩美、俺のシャブリながら、オナニーしてよ」って彼に言われたんです。
    初めは彼に言われるがままだったのですが、
    実際にやってみると思いのほか感じてしまって、いつも以上に気持ちよくなってしまったんです。。
    そして絶頂に達したその時、なにか今まで見たことのないイメージが沸いてきて……。
    いまの私と同じ行為を別の女性がしているイメージが浮かんできたのです。
    彼女もフェラをしながら、アソコを触っていました。
    その女性が誰なのか、直感的にわかりました。その女性は彼の前の彼女でした。
    私は途端に凄く冷めてしまって、、彼には話しませんでしたが…。
    その後、彼とは別れました。
    以来、好きな人とすると必ずそういったイメージが見えるようになったのですが、
    面識の無い他の方で試してみたいんです。
    この話は、まだ誰にも話したことがありません…というより知人には話せません。
    なので、お互い秘密厳守で協力してもらえないかと思いメールしました。
    もちろん、少ないかもしれませんが謝礼も考えています。
    もし、承諾していただけるなら、簡単な貴方のプロフィールをいただけないでしょうか?
    私も送ります。
    (2006.2採取)
    -------------------------------------------------------
    初めまして。見知らぬ人間からいきなりのメールの到来、すわ何事かといぶかしんでいるかと思われます。
    当方、米田寅美という婆で御座います。
    主人は既に他界しており、息子夫婦も四年前に事故にて失い、
    今は息子夫婦の残した孫娘と朗らかな日々を過ごしております。
    やつがれと同年代で嗜む者が多い盆栽にもゲートボールにも興味が無く、趣味は専らインターネットでのエロ画像の収集であります。
    早速ですが今回メールさせて頂いた本題に入ります。
    折り入ってお願いがあるのですが、孫娘と交尾して頂けないでしょうか。
    孫娘は、身内であるやつがれの贔屓目抜きでも別嬪だと思っているのですが、如何せん奥手で内気な性格が禍して、二庶O回(原文ママ)の誕生日を迎えた今でも処女なんです。処女膜、在中です。
    若かりし時分のやつがれは、孫娘と同じ年齢の頃には何署l(これまた原文ママ)もの殿方と交尾を夜な夜な繰り返し、「淫獣」の通り名を轟かせ、快楽に満ち溢れた人生を謳歌していたものです。
    孫にも交尾の悦びを覚えさせたい、少なくともやつがれの血を引きし者として、根は淫乱であろう事は想像に難くないのですが、切っ掛けに恵まれてないのが不幸で。
    孫の許可も既に得た上で、こうして交尾していただける殿方を探しているんですが、お願いできないでしょうか?
    謝礼金も用意出来ますので。
    それでは、御返事お待ちしております。
    長文失礼致しました。
    (ここに出会い系のアドレス)
    (2006.5採取)
    -----------------------------------------------------
    From:ドーベルマン奈々子

    はじめまして。
    あなたのご友人から「小学生時代に修学旅行でお風呂に入ったとき他の人より人並みはずれた短小だった」とお聞きしたのですが本当ですか?
    今もその短小ぶりは発揮されてますでしょうか?

    率直にお話しますと、実は私もオマン穴がすっごく狭くって、
    普通サイズの男性でもかなりキツイというか痛くて…気持ちィィとか思えないんです。
    針の穴に曙の指を無理やり通されているような気持ちと言えば、
    どれくらいキツイか分かってもらえますでしょうか?
    そんな時あなたの短小のお噂を耳にし、いてもたってもいられない衝動に駆られ、
    ご友人の方にご了承頂いた上でメールさせて頂く事にしました。
    ひょっとすると事前にお話をお聞きになられておらず驚かれているかも知れませんね。
    もし、そうでしたら失礼をお詫びします。

    付け加えると、ご友人の方からは「恐ろしく先細りな形だった」ともお聞きしています。
    まさに、それこそがあなたに私がメールする決定打となった言葉でした。
    そうなんです…まずはゆっくり細い部分で責められて、段々と根元が入っていくにつれて
    太さを感じられるという形こそ私の求めていた理想の形だったのです。

    適材適所という言葉がありますが、あなたはまさに私にとって適材。私はあなたにとって適所。
    刀とさやのような関係を結べるパートナーだと思ったのです。
    あなたも私と同じようにそう感じていると思います。
    と同時に、私がどんな女なのか確認したいと思われている頃だとも思いましたので、
    ここに、
    http://XXX.XXX.XXX/

    私の顔や全身の写真、そして私がなぜドーベルマン奈々子というハンドルネームなのかも
    すべて分かるように理由も書いておきました。
    ドーベルマン奈々子で検索してもらえればすぐ分かると思います。
    もちろん、プロフィールを見ていただければケータイのアドレスもあなたに渡るようにしてあります。
    http://XXX.XXX.XXX/

    それではお返事お待ちしています。
    (2008.2採取)
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  • 自民党改憲案の怖さ

     以下の文章は、2年前の参院選の前にmixiに書いた日記だ。

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     ぼくはもちろん、自民党や公明党を支持したことなんか一度もないけれど、21世紀になってからこっち、ほとほと彼らには愛想が尽きた。
     でもそれは、安倍、福田、麻生の三バカトリオのせいではない。みんなはおそらく三バカトリオのおかげで愛想を尽かしたんだと思うし、ぼくも「たいがいにせえよ」とは思ったけれど、問題は小泉だ。
     郵政民営化?
     もちろん、そんなことはどうでもいいのだ。
     民営化するのがいいのか悪いのか、それは簡単に答えが出る問題じゃないし、色んな意見があって当然だ。やってみなきゃ分からないこともあるだろう。
     年金問題?
     そんなの、小泉のせいでもなんでもない。(自民党のせい、とは言えるかもしれないが)

     みんな、誰一人そんなことは覚えてないのか、最初から気にもしてないのか知らないが、小泉は、戦後60年の日本の歴史の中で、最悪のことをやった。

     小泉は、ブッシュの戦争を支持した。真っ先に。

     アメリカは、(一応は)「ブッシュの戦争」が間違っていたことを認めた。
     自民党は? 小泉は?
     もちろん、知らんぷりだ。アメリカがやったことなんだから、ついていくのが当然で、アメリカが間違えたことは自分たちの間違いではないとでも思ってるのだろう。属国だと思ってる証拠だね。
     インド洋の給油を中止した民主党は、政権交代した際に、もうちょっとなにがしか戦争そのものについて糾弾してくれるかと思ったが、彼らにも同じ穴のむじながいっぱい紛れ込んでいるからだろうか、なーんにも言わなかったね。

     もう一度書くが、

     小泉内閣は、何の根拠もなかったブッシュの戦争を支持し、支援し、日本国民を大量殺戮の共犯者にした。
     そのことに何の反省もない議員連中には二度と日本の舵取りを任せるわけにはいかない。「人道に対する罪」で死刑にしてもいいと思う。

     景気? 消費税?
     もちろんそれらは、生活者にとって重要な議題ではあるだろう。
     しかしそんなことは、今もイラクで失われ続けている人命や収まらない混乱と比べたら、些細な問題としか思えないのだ。

     今、マイケル・サンデルというハーバードの教授が書いた「これからの『正義』の話をしよう」という本がベストセラーになっているらしい。本は読んでないが、この教授の講義を放送した「ハーバード白熱教室」は半分くらい見たので大体中身の想像はつく。
     ある種の状況における「正義」の追求のしかたについて考えさせられるものだ。
     こんな本や番組を、一体どんな人たちが読んだり観たりしているのか分からないが、真剣に「正義」について考えている人が少しでも増えているのなら喜ばしいことだ。しかし、果たしてそんな人たちは小泉のやったこと――小泉が日本にやらせたことについて、一体どう思っているんだろう?
    (2010.7.10)
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     再び同じことを書こうと思ったのは、自民党の改憲案を読んで呆れかえったからだ。人権よりも「公の秩序」を重視していることについては多くの人が問題点を指摘しているが、「国防軍」「集団的自衛権」のことについては余り見かけないのでそちらについて。

     自民党の改憲Q&A4「安全保障」のQ7の答にはこうある。

     9 条1 項で禁止されるのは「戦争」及び侵略目的による武力行使(上記①)のみであり、自衛権の行使(上記②)や国際機関による制裁措置(上記③)は、禁止されていないものと考えます。

     ええっ、「制裁」のために自衛隊(国防軍?)を出せるようにするって?
     よく集団的自衛権の話で引き合いに出されるのが、共同演習しているときにアメリカの艦船が攻撃を受けた場合、一緒に応戦できないのか、などと言われる。これは確かに理不尽な話で、そこで応戦できないようなら共同演習もできないだろうとは思う(そもそもが極めて極端な仮定だが)。
     しかし「制裁」とは何なのだ。「国際機関」とは?
     アメリカが大きな力を持つ国連でさえ認めなかったイラク攻撃に、真っ先に賛同の意を表明したのが小泉だった。当時、この改憲憲法が施行されていたら? フセインに対する「制裁」として「国防軍」はイラク攻撃に参加したってことじゃないの?
     イラクでは今も市民の被害は続いていて、12万にも及ぶ死者を今も更新し続けている。その数を、「国防軍」がさらに増やしたことだろう。

     よく、「『日本は金だけ出して血を流さない』と言われる」などと言う。誰に言われるのか、本当に言われてるのか知らないが、「自衛隊を海外派遣したい人たち」はこのようなことを言う。タカ派の人たちの「血」というのは決まって自分たちの「血」で、「お国のために」「自己を犠牲にして」流す「血」のことだ。おめでたいロマンチストなのだろう。
    「制裁」に行くってことは、主にその国の人の血が流れるってことだ。自衛隊を殺戮集団にするってことだ。アメリカの爆撃手がゲームのように画面を覗きこんでミサイルを発射していたのと同じことを、日本人にもさせるってことだ。市民を誤爆したら「遺憾なことです」と言って安い賠償金を払うってことだ。
     安倍はああいう報道を観ていて、ぞっとしなかったのだろうか。「九条を直して自分たちもあれに参加したい」と思ったのだろうか。

    「武力を行使しない」というのは自分たちの血や汗を流さない、という意味ではない。「人を殺さない」ということだ。違うかね?
  • おためごかしの論法を使う人たち


     ここ最近、特に震災・原発事故以降「おためごかし」としか言いようがない言説が日本中を覆っているように感じているのはぼくだけだろうか。
     曰く、「電気がなくて死ぬのは病人と老人、弱者からだ。原発を止めると人が死ぬ」。
     曰く、「景気をよくしないと失業者も増え、自殺者も増え、治安も悪くなるばかりだ。まず景気をよくしなければ」。
     曰く、「被災者を助けるためにも景気をよくしろ」。
     全部全く同じ論法。
     一見正論で、反駁しようがないように思える。
     しかしもちろん、こんなものは本音じゃない。
     日本の素晴らしい言葉(=概念)は「もったいない」だけではない。「おためごかし」という言葉を当てはめるとあら不思議、すごく分かりやすくなる。

     おためごかし【御為ごかし】:表面は人のためにするように見せかけて、実は自分の利益を図ること。

    「原発止めると人が死ぬ」というのは、「原発止めたら電気代が上がって困る」だし、「景気が悪いと人が死ぬ」というのは「ボーナス出ないとローンが払えない」だ。
     だったらそう言えばいい。別にそれは恥ずべき主張ではないのだから。なぜそれを「弱者が困るだろ」と論点をずらさねばならないのか。ダシにされる「弱者」こそいい面の皮だ。

     この手の論法が怖いのは、一見正論で反論しにくいだけでなく、まさにその「弱者」に相当する人さえ「その通りだよな」と真に受けてしまいやすいことだ。こんな論法を真に受けていたら、99%の貧困層が1%の金持ちを支えるような国に、あっという間に成り下がってしまうことだろう。

     心から弱者を、生活困窮者を救いたいと思っているなら、「福祉の充実を。そのための増税(所得税、法人税等)なら賛成」と言うはずだ。
     弱者救済の一番手っ取り早い方法は富の再分配だ。持てるものが、持たざるものを食わせてあげればいいだけの話。日本はそれすらできないほど貧しい国になってはいない。実際ニートが大勢生きていけるのも、デフレと今の親世代に当たる年金受給者が(不当なほど)たくさんもらっているおかげだろう。「落ちこぼれる人のいない国」を目指すのなら、社会主義を、高福祉国家を目指せばよい。
     でも「おためごかし」の論法を使う人たちはもちろん、自分の身は切りたくない。というかすでに自分たちは「ギリギリ」だと感じている。そしてなぜか、敵視するのは大金持ちではなく、自分と近い立場にいる小市民。都知事の公費無駄遣いより、生活保護の不正受給に腹を立てる。自分は都知事になることはないが、不正受給ならやろうと思えばできるからだ。「俺は真面目にやってるのに、抜け駆けしてうまいことやりやがって」というわけ。

    「原発なしには日本は立ち行かない。だから原発は必要なのだ」と言い張る人も同じ。
     原発が必要で、安全なものなら人口密集地の近くに作ればいい。廃棄物処分場もだ。
     米軍基地も同様。
     基地や原発が、自分の街に来るとしても仕方がない、我慢できる――そういう人以外が、原発を「推進」したり日米安保を「堅持」するなどと軽々しく言えないはずだと思うのだが、安倍自民党が支持されるということは、この国の大半の人はそう思ってはいないようだ。
     基地が来るのは困る。でも日米安保は必要だ。
     原発や処分場が来るのは困る、でも安価で大量のエネルギーは必要だ。
     ――これを「我欲」と言わずして何と言うのだろう。
     東日本大震災は自然災害だが、福島原発事故はある意味「天罰」だろう。普通の感覚ならそこで反省するところだが、東京を中心とする多くの日本人には「ジャブ」程度にしか感じられなかったということか。

     この期に及んで安倍自民や石原が票を伸ばすような国なら、まあ滅んでも仕方ないと思うよ。
  • 【超短編】絶好スポット

     船岡山は、平らな京都の街なかでは珍しい、ビル五階分程度の小さな山だ。普段は近所の人が散歩に来るくらいで、観光客はまず来ない。しかし最近は、五山送り火のうち、南の方にある鳥居型を除く四つまで一度に見渡せることができるスポットとして知られてきており、毎年この日――八月十六日だけは多くの市民と観光客で一杯になる。心配された空は幸い持ちこたえていて、今年の送り火は無事八時にスタートした。
     右大文字、妙・法、舟形と続き、そして今はやや北西の間近にある左大文字の火が燃え盛っている。公園の観光客達は絶好ポイントを求めてぞろぞろと移動し、ビデオやケータイカメラを構え、歓声を上げる。
    「この人たちのうち何人が送り火の意味を理解してるんやろうね」
     君は苦々しげに言う。
     観光客のほとんどが、五山送り火を「大文字焼き」と呼ぶ。どら焼きとか今川焼きみたいに。京都市民にしたって「夏の風物詩」と思ってる人が大半だろう。
    「こんなふうに送り火を見る日が来るなんて、思ったことなかった」
     君の目から涙がこぼれる。
     もう泣かないで。ぼくは言ったけれど、もちろん君の耳には届かない。届いても、同じことだとも分かっていた。
     右大文字の火はもうほぼ消えていて、左大文字の火勢も弱まってきた。もうそろそろ帰る時間だ。
     ぼくはゆっくりと上空へ昇り、あるポイントで止まった。そこからだと実は、最後の送り火、鳥居型がまだ赤々と燃えているのが見えることに気づいたのだ。ここならまだもう少しだけ、君の姿を見ていられる。
     周囲を見回すと、同じように浮かんでいる人たちがいるのが見えた。驚くほどたくさんの人々だ。ほとんどがお年寄りだったが、中には若い人も、子供もいた。
     みんな黙って下を見下ろし、最後の鳥居型の炎が燃え尽きるまで、大切な誰かを見守っていた。
  • 『おおかみこどもの雨と雪』雑感(ネタバレ)

    「気になった」ことを書き連ねていくので文句ばかりになりそうだけれど、すごく出来の悪い映画・アニメだと思っているわけではない。むしろ、『時をかける少女』『サマーウォーズ』同様キャラデザインは好きだし(貞本キャラが好き、ということだが)、風景も美しい。『サマーウォーズ』の声はひどかったと思うけど、今作はさすがの宮崎あおいを始め子供もなかなか。せめて脚本がもう少しこうだったらもっとよかったのにな、という文句が出るのも技術が一流だからのことです。

     1.あらすじみたいな前半
     さほど特別とも思えない暮らしをしている一女学生が「おおかみおとこ」という異種と出逢って恋に落ち、異種であると知りながらもその子供を作る――というあたりの気持ちも葛藤も、彼自身の成り立ちも、その突然の死までもが、何もかも駆け足のナレーションとイメージショットだけで語られてしまうのには正直唖然とした。(ナレーション多すぎ!)
     花の、女としての、母としての物語であるなら、これはない、と思った。
     多すぎるナレーションの主が花ではなく雪であることは「これはこどもの物語ですよ」という宣言だったのかもしれないが、それにしては前半が長く、その割に説明するべきことは何も説明してないという印象。「母から聞いた話を再構成した」というならもっとイメージショットとナレーションだけでよかったような気がする。雪が誰かに語っている場面でサンドイッチしてもよかった。

     2.理解できない設定
     そもそも普通狼男というのは狼でも人間でもない、まあ一種のハーフであって、ハーフと人間の子供ならクォーターじゃないのとか、「おおかみおとこ」は狼男とは違う別のものなんだとしても、人間との子供なんだから父親よりは人間の要素も受け継ぐんじゃないのとか、山のような疑問符が浮かぶ。
     しかもその父親でさえ都会で普通に暮らしていたというのに、人間に育てられたハーフ(クォーター?)の子供が都会で暮らせない理由はまったくないように思える。
    「『おおかみおとこ』『おおかみこども』というのは単なるメタファーに過ぎないのだから……」という人が大勢いそうだが、そういう人にはこう言いたい。「メタファーなんか犬に食わせとけ」と。
     おとぎ話だ、寓話だ、というなら純然たるおとぎ話を語っていればいいと思う。リアルな世界を舞台に、まるでリアルな悩みであるかのように田舎へ逃げたり、土から作って野菜を育てたりしなくてもいい。
     一方で「おおかみこども」という設定をリアルに持ち込んだことの面白さを利用しておきながら、ある部分以降を「メタファーですからその辺は……」と逃げるのだとしたら(監督自身は多分そんなこと言ってないと思うけど)ご都合主義と言われても仕方ない。
     特殊な設定であるならそれを観客が理解できなければ、彼らの悩みをちゃんと共有することも不可能だ。
     最後の、比較的感動的に見える雨の巣立ちにしたところで、あれが中心的なテーマだったのなら、最初からそのように、雨や雪の葛藤と二人の考え方の違い、対立を描いていればもっと効果のあるシーンになったことだろう。花の思想、雨の思想、そして雪の思想――そういうものはこの映画の中では何一つ描かれていない。まあ、「自然と人間」とか「動物と人間」なんていうのは、実際のところこの映画が描こうとしたものでもなんでもないのだろうから、仕方ないのかもしれないが。

     3.早すぎる巣立ち
     雨と別れるシーンで、ああこれは「子供は親が思っているより早く成長する」という話なんだな、ということを思い少し感じ入った。そして、いい母親は(父親も、だろうけど)ちょっとショックだとしてもそれを笑顔で送り出さなきゃいけないんだな、と。
     ネットで話題の某氏は「ダブルバインドを押しつける敵役の母親」という斬新な解釈をしていたが、さすがにこの監督がそんな人とは思えない。せいぜい「人間もおおかみもどっちでもいいのよ」と言いながら心の底では当然人間を選ぶものと信じて疑っていなかった、くらいのことだろう。雨があちらの世界を選んでしまったことは相当ショックだったに違いないのに、一瞬で立ち直ってあのように叫べる宮崎あおい……じゃなかった、花はなかなか肝の据わったお母さんだと思うよ。

     4.どうでもいいことだけど……
    「雪」、はともかく「雨」という名前には最後まで馴染めなかった。特に、沢で死にかけるシーン、森を探し回るシーン等、連呼、絶叫する場面が多いだけに違和感ありまくり。普通ならありそうな「名付け」の場面、どういう意味を込めたというエピソードもないので(雪は確か生まれた時雪が降ってたから、とかそんな理由。雨もそうか?)感動にも繋がらない。趣味の問題と言われればそれまでだが、もう少し違う選択はなかったんかなあ。

    【追記】
     あ、そうそう、もう一つだけ。嫌われるようなことしたかなと思って雪を追い回したあげく怪我をした草平。どうして誰も「嫌がる女の子を追い回したお前が悪い」って言わないの? なんであいつは反省の色もなく謝りもせず「知ってた」とかしれっと言えるの?
  • 『タイムトラベラーズ』にないものねだり

    【注意:なるべくネタバレは避けますが物語のヒントになる可能性はあります】

     このゲーム、企画時点から監督のイシイジロウさんにある程度概要を聞いていて、インタラクティブノベルはきっと時間ものと親和性が高いはずだし、絶対面白くなるだろうと期待が高まっていた。
     しかし、いざプレイしてみるとどうも勝手に想像していたようなものとは違う。
     恐らくは親和性が高すぎるというか、そもそもインタラクティブノベルには「タイムトラベル」要素が含まれてしまっているわけで、時間ものテーマのストーリーをそのままゲームに落とし込んでも「タイムトラベル」感はあまりプラスされない、ということかもしれない。『428』や『街』と同じプレイ感では「タイムトラベル」というこの物語のキモとなる部分が軽く感じられてしまう、というか。
     具体的にどうすればよかったのかは、今はっきりとは分からない。でも何かもうちょっと方法があったんじゃないか、という思いだけはある。
     見慣れたタイムチャートの選択に一考あってもよかったような気もする。そこになにがしか「今自分は時間を越えているのだ(ゲームに内蔵された機能を使っているのではなく)」という「演出」があるだけで少し違ったかもしれない。「タイムトラベル」は無制限にはできず、TIMESTOP以外のバッドエンドがあってもよかったかもしれない(タイムチャートに行かず「GAMEOVER」と言われる。……それで結局タイムチャートに戻るのではあんまり意味がないのだが)。
     プレイヤーは記憶を持ってジャンプするのにキャラは記憶を保持していない、というずれも問題かもしれない。いっそのこと「自覚なきタイムトラベラー」ではなく「自覚のあるタイムトラベラー」(普通はそうだ)だった方がよかったのではないかという気もする(話そのものに相当修整が必要だろうけど)。先頃発売されたチュンソフトの某ゲームも実は時間ネタを扱っていたけれど、その辺りの工夫がなされていて「同じ時間を繰り返している感」が出ていた。

    『ひぐらしの鳴く頃に』というデジタルノベル(インタラクティブでもなく、ゲームでもない)は、インタラクティブ要素を排しつつなお、インタラクティブノベルの世界観というものを表現してみせた。映画『メメント』は、逆から語ることによって前行性健忘の世界を見せてくれた。一本道の映画や小説というものは、その気になれば様々な語り方ができるわけだ。
    『タイムトラベラーズ』は、基本的には正しい道を選択していけば一本のシナリオになるものであって、ゲームという形式でなければ語れない物語だったかというと、多分そうではない。アニメにしても映画にしてもきっと充分面白いものになることだろう。
     まさにその点が、この「ゲーム」に対する不満なのだけど……タイトルにも書いたように、分かってるんです、ないものねだりだということは。
     でも、こういうゲームをプレイすると逆に何か色々とやりたくなってしまうんだよね。自分で。
  • 「命」の大切さについて←ふざけてるわけではありません

     世間の人がどう思っているか実のところ最近よく分からないのだが、ぼくはあらゆる「命」は尊いものだと思っている。肉食をし、家に入ってくる蚊やムカデを殺したりはするものの、できればあらゆる殺生をせずに、いろんな生き物と人間が共存できればそれにこしたことはないのになあと思っている。
     一部の鳥やほ乳類はペットにしたいくらい好きだし、そうでない生き物だとしても、理不尽に命を奪われる光景には胸が痛む。

     でもたとえば、日本ではとうに絶滅してしまったトキや、元々いないパンダを、わざわざ日本に連れてきて繁殖させ、「種」を保存しようとする行為が「命」を大切にしている行動だとはまったく思えない。科学的、博物学的にはそりゃあ意義のある行為かもしれない。でもそれは、恐竜の遺伝子からとうに絶滅した恐竜を復元しようとする行為と何ら変わらないものだ。「いけないこと」だと言ってるわけではない。科学的、博物学的興味でそれをやることは一向に構わないが(パンダの繁殖も恐竜の復元も)、それはあくまでも人間のエゴであって、パンダのためでも恐竜のためでもないだろう、という話。

     ぼくは「既に生まれてきてしまった命」はなるべく大切にし、その生を全うさせ、できればみな「幸福」であってほしいと思うけれど、「種」が絶滅しようがどうしようが、正直どうでもいい。人類が緩やかに絶滅に向かったとしても、一向に気にならない。
     ボランティアで野良猫たちを去勢・避妊手術をして地域で共存させようとする人たちがいる一方で、「産む権利を奪うなんて可哀想」とか言って自分のペットに手術をしないで、望まず産まれた子猫や子犬を捨てるような飼い主もいる。どっちが「命」を大切にしているかは、考えるまでもないと思うのだが。

     ぼくは「自分の遺伝子を残したい」という思いがまったくないせいもあるかもしれない。どうも、そう思っている人は多いらしいから、ぼくの本能が壊れているのかもしれない。でも何にしろぼくは、自分の血統が途絶えることを何とも思っていないし、人類が絶滅することもトキが絶滅することも、どうでもいい。この世に生まれてしまった「命」さえ「幸福」であるなら。

     こういう考え方は普通なんだとずっと思ってきたのだけれど、どうも違うみたいね?
  • 『探偵映画』について

     十年近く前、『探偵映画』と同じ設定のライトノベルがあって、しかもそれがよくできていると書いている評論家がいたので、当然気になって読んでみた。もちろん米澤穂信氏の『愚者のエンドロール』だ。
     書いた当人でも「バリエーション」が書けるような設定だとも思えない、一回限りのネタだと思っていたのでどう料理しているのかと思ったが……残念ながら、一体どこに評価すべき点があるのかさっぱり分からなかった。バリエーションを書くなら「かけ算」か、せめて「足し算」を見せてもらえると思っていたら「引き算」だった、という感じ。
     しかし、何より首を傾げたのはそのあとがきだった。初版文庫のあとがきにはこうある。
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     ミステリー好きの読者の皆様へ。お分かりかもしれませんが、本作はバークリー『毒入りチョコレート事件』への愛情と敬意を持って書かれました。クリスティは実は無関係です。かの傑作を相手にどこまで本歌取りがなったものか、それは皆様の判断に任せます。また、毒チョコ風味+映像には安孫子武丸氏の『探偵映画』という先例があります。未読の方は是非どうぞ。」(誤植は原文ママ)
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    「毒チョコ風味+映像」というのを読んで、目が点になったものだ。
    『毒入りチョコレート事件』も『探偵映画』も未読の人間は仕方がない。しかし、おそらくはミステリー評論家を名乗る人たちやマニアは多分読んで(くれて)いることであろう。その人達はこのあとがきを読んで、何とも思わなかったのだろうか。もしそうだとしたら、およそ行間を読むという力がないのか、ミステリのことが分かっていないのかどちらかだろう(行間が読めなければ当然小説を読む力もあまりあるとは思えないが)。
     きっと誰かが指摘するだろうし、若い、それもライトノベルの新人にクレームをつけるのもどうかと黙っていたらあっという間に十年。そして作者はあれよあれよというまにベストセラー作家になって、おまけに『愚者~』を含むシリーズがアニメ化されて書店に山積みになっているという現状。表紙が変わっているからもしかしてあとがきも変わっていたりして、と期待したものの、名前の誤植が直ったくらいでほぼ同じものが載っていた。『毒入りチョコレート事件』など読んだこともないし読む気もなさそうな層が多数手に取ることだろう。「誤解」がこれ以上拡がり定着するのは避けたいので、仕方なくこの文章を書くことにした次第である。

    1)『探偵映画』は「毒チョコ風味+映像」の作品などではないこと。
     『探偵映画』のキモは「未完成のミステリ映画の結末を推理するメタミステリ」であって、出発点ももちろんそこだ。
     複数探偵が議論しながら複数の推理が出てくる名作、というだけなら数知れない。『毒入りチョコレート事件』(1929)に先だって発表されたロナルド・ノックス『陸橋殺人事件』(1925)もそうだし、もっとくだればアシモフの「黒後家蜘蛛の会」シリーズを忘れることはできないだろう。これらの作品はどれも好きだし、深く影響を受けていることは間違いないが、特にそのどれか一作を意識していたわけではないし、『探偵映画』を書くに当たって、映画スタッフとキャスト自身がああでもないこうでもないと議論する形式にした時点で、多重解決ものになったのはむしろ必然だったろう(そもそも考えてみたらぼくはデビュー以来、本格ミステリにおいてはいわゆるホームズ=ワトスン形式の対話型探偵ではなく、必ず三人以上のチームを組んでディスカッションを繰り広げさせている。そういうのがとにかく好きなのだ)。
     しかしある時、『探偵映画』が他でもない、『毒入りチョコレート事件』に似ている、と看破した人が一人いる。ミステリ評論家の新保博久氏だ。
     '94年の文庫化の際にお願いした解説の中で、新保氏はこう書いている。
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    「(略)……ところで、こんど読み返してみて思ったんだけど、これはアントニイ・バークリーの『毒入りチョコレート事件』(創元推理文庫)に似てるなって」
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     ああなるほど、そういう見方もあったのか、とぼく自身新鮮な思いを抱いたものだ。
     親本発表時にそのような指摘をした人は誰もいなかったし、新保氏でさえ初読時にすぐそう感じたわけではないことが分かるだろう(解説の文章は、人形シリーズ風の対話形式をとっているので、必ずしも新保氏自身の生の言葉ではないのだが)。これはつまり、「評論家的な洞察」であり、一つの「切り口」であるに過ぎない。鋭い切り口だけれど、だからそれが正解だ、ということとは違う。何しろ作者本人でさえ正解など分からないのだから。
     そして、新保氏が『陸橋殺人事件』でもなく「黒後家蜘蛛の会」でもなく『毒入りチョコレート事件』を持ち出したことには、「複数探偵、複数推理」以外にもはっきりとした理由が一つだけある。
     それは、『探偵映画』において、キャストがほぼ全員自分自身の役を犯人だと主張する点だ。
    『毒入りチョコレート事件』の探偵メンバーの一人は、さんざん論理を積み重ねていったあげく、最終的に「自分しか犯人はありえない」という結論を提出する。登場人物たちはもちろん、読者も呆気にとられ、「何やそれ!」っと叫びたくなる印象的な場面だ。「犯人の自白」かと思いきや、それは単に証拠を積み重ねていくとそうとしか思えないだけで、わたし自身は自分が犯人ではないことを知っているのですが、と笑って言い放つ。結局その推理は間違っているわけだが、バークリー一流の皮肉と稚気に満ちた名場面(珍場面?)と言えるだろう。
     新保氏はこの場面について「『毒入りチョコレート事件』には自分を犯人だと指摘する心理的合理性がないが、『探偵映画』はその点自分を主役にしたいというはっきりした動機づけがある」とどこかで書いていたはずだ(てっきり文庫解説だと思って読み直したが見当たらなかった。どこだったろうか?)。
     つまり、『探偵映画』を「毒チョコ風味」と評することは「間違い」とは言えないが、この点を無視してはそもそも成り立たない話なのだ。


    2)『愚者のエンドロール』は『毒入りチョコレート事件』とはさほど似ていないこと。
    『毒入りチョコレート事件』はアマチュア探偵達が一堂に会し、現実に起きた事件についてディスカッションを行ない、一人ずつ推理を披露し、否定されていく構成だ。「黒後家蜘蛛の会」もそうだし、『探偵映画』もそのような形式に準じていると言っていいだろう。
     しかるに『愚者のエンドロール』はやや変則的だ。一人ずつ映画スタッフ(キャストではない)を部外者の「古典部」の面々の前に呼び出して推理を聞き、探偵役がそれを否定し、最後に探偵も一つ独自の考えを披露する。「映画の結末を推理する」というそもそも変則的なストーリーの導入もあって、作者自身の宣言がなければこれを読んで『毒入りチョコレート事件』を連想する人間がいるとはおよそ思えない。「複数探偵、複数推理」であるという以外に何一つ共通点は見いだせないからだ。もちろん、「自分が犯人だ」と名乗りをあげる人物もいない。「お分かりかもしれませんが」と言われても「そんなの分かるわけない」と答えるしかないだろう(複数探偵複数推理の作品が『毒入りチョコレート事件』しかないと思っていれば別だが)。
    「本歌取り」だという言葉を否定するつもりはない。作者が言うのだからそうなのだろう。ある作品にインスパイアされ、「同じような面白いものを書こう」としたとしても、かえってそっくり同じにはしないものだ。
     しかし、いずれにしても作者の意図とは関係なく、『愚者のエンドロール』はさほど『毒入りチョコレート事件』と似てはいないし、『探偵映画』は『毒入りチョコレート事件』と似てしまった。そして、どうした偶然か『愚者のエンドロール』はどう見たって『探偵映画』の方にこそ似ている。
    「毒チョコ風味+映像」の「先例」というのはこの点をもってしてもおかしなことだと分かるだろう。
    「未完成のミステリ映画の結末を推理する話には『探偵映画』という先例があります」とはっきり書いてもらえれば、誤解の生じる余地はなかったのだが。

    3)ついでに「ホタエナッ!!」について
     昨年末、声優としても有名な関智一氏が主催する「ヘロヘロQカムパニー」という劇団の上演した「ホタエナッ!!」というお芝居のプロットが、『探偵映画』の外枠をほぼなぞるようなものだったというちょっとした「事件」があった。あくまでもプロットに過ぎず、すべてのセリフ、劇中映画の内容等は完全にオリジナルのものだ。
     脚本家の方は当初から『探偵映画』へのオマージュ作品であることを公言しており、「盗用」の意図などなかったことは明白だった。ただ、公演情報等にそのような表記があったわけではないので、一部の観客の中に不審を感じた方がいらっしゃったのは致し方のないことだったろう。
     主催の関氏から経緯の説明とお詫びがあり、当該の舞台のビデオを送っていただき拝見したが、小説ではなく演劇であること、ミステリよりはずっとコメディを目指したものであることなどから、楽しく観ることができた。原作・我孫子武丸と書いてくれというにはあまりにオリジナルになっていて、さりとて何一つ書かないとやはり観客に不親切であろうと話し合い、「参考」という言葉しか思いつかなかったので、現在発売中のDVDにはそのように書いていただいている。通販で購入できるはずなのでご興味のある方はご覧ください。
     ちゃんとした原作として、漫画化や映像化されることはもちろん嬉しいけれど、こういう形で「別の物語」の中で自分の作った形式が再利用されることも、結構嬉しいものではある。その形式に、それだけの利用価値があったということだから。――ただしそれも、作家の方に、元ネタに対する愛情が感じられれば、の話であることは言うまでもない。
  • 世相を鋭く風刺する漫才


    シーボルト「こんにちはー。シーボルトでーす」
    シーベルト「シーベルトでーす」
    『二人合わせて、シー兄弟でーす』
    シーボルト「ほんまは兄弟ちゃうんやけどね」
    シーベルト「皆さん知ってはるって」
    シーボルト「……君はええよ。最近すっかり有名になって。君の名前を聞かん日はないくらいやからな」
    シーベルト「そんな! ええ話で有名になるんやったらともかく、あれはちょっと……それに、ボルト兄さんかて充分有名ですやんか」
    シーボルト「そうかなあ」
    シーベルト「そらそうでっせ」
    シーボルト「ほな君、ぼくの業績知ってるんか?」
    シーベルト「そら知ってますがな。ほら、あれでしょ……」
    シーボルト「なに」
    シーベルト「あのほれ、『少年よ、大志を抱け』って言うたとか……」
    シーボルト「それはクラークやがな! 北海道! 全然違う!」
    シーベルト「ちゃいましたっけ。……ほな、あれですわな、『海のボルト』っていうて、同じくらい電力を持ってるっていう……」
    シーボルト「何やそれ! 『海のミルク』みたいに言うな! むしろあいつが『山のシーボルト』やろが! ……いや違うわ。とにかくそんなんとちゃうねん」
    シーベルト「いややな兄さん。からこうただけですやん。ちゃあんと知ってますって。えーと……フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold, 1796年2月17日 - 1866年10月18日)は、ドイツの医師・博物学者。、と。そうそうお医者さんでしたな。年上やろなーとは思てましたけど100も上でしたか。それにしてはお若う見える。どう見ても90そこそこ上くらい」
    シーボルト「突然落語にすな。……ところで君何見てるんや」
    シーベルト「なにって……スマホですがな。スマホでウィキペディア見てまんねん」
    シーボルト「ウィキペディア……ほら見てみい! やっぱ君はぼくのことなんも知らんのやないか!」
    シーベルト「何を言うてますのん。ウィキペディアはみんなが作った、誰でも見られる『外部記憶』でっせ。ここに書いてある、いうことは、『みんなが知ってる』のと同じですやん。ぼくは今、『思い出してる』だけですがな」
    シーボルト「そんな屁理屈があるかい! 君とはやっとれんわ!」
    シーベルト「わあわあ言うております」
    シーボルト「だから落語にすなって!」

  • 硬い密室と柔らかい密室


     *この文章は貴志祐介『硝子のハンマー』及び我孫子武丸「人形はテントで推理する」(及びできれば赤川次郎『三毛猫ホームズの推理』)を既読の方へ向けて書いています。未読の方には意味が分からないかもしれませんし、今後の楽しみを失う恐れがあります。ご注意ください。

    『硝子のハンマー』が刊行された時、角川のPR雑誌「本の旅人」のインタビュー(聞き手は北村薫さん)で、メイントリックが「人形はテントで推理する」(具体的なタイトルは伏せられているが)のそれと若干類似していることが話題にされていた。北村さんからそのことを聞かれた貴志さんは、それは読んでいるけれども、このトリックを思いついたのは二十代の頃だったと述べていたように記憶している。
     貴志さんは59年生まれとのことなので、62年生まれのぼくからすると三つ上だけれど、まあ同世代と言っていいだろう。
    「人形はテントで推理する」のネタがいつ浮かんだのかはっきりとは覚えていないのだけれど、思考経路は今でも覚えている。
    『三毛猫ホームズの推理』のようなことができないかと頭を捻っていたのだ。
    「三毛猫ホームズ」シリーズの第一作、『三毛猫ホームズの推理』は78年に発表されているが、いつ読んだかははっきり覚えていない。シリーズがそんなに出てなかった気がするので多分出てそんなに経たない間だろう。貴志さんも恐らく20代前半で読んでいるのではないだろうか。
     色々な密室トリックを分類することは可能だけれども、いまだにこのトリックというのはちょっと次元の違う、そしてまた一回やったら他の人は真似の出来ない、孤高のトリックだろうと思う。たくさん密室トリックを読み慣れていればいるほど唖然とするトリックだ(通常のトリックはその後にバリエーションが色々出るので、遡って読んでもなかなか驚けないものだが、これはバリエーションが書けないので)。
     バリエーションは書けない。しかし何とかして似た傾向のトリックは可能ではないだろうか。密室の外部と内部が完全に隔絶された状態のまま殺人を行なう、画期的な方法がないものか、と考えたわけだ。
     それで考えたのが「人形はテントで推理する」の「柔らかい密室」であり、同時に実は「硬い密室」も考えていた。同じ発想から別れた二つのネタの、どちらを採用するか悩んでいたわけだ。結局「硬い密室」は捨てて、「柔らかい密室」を選んだわけだが、後年『硝子のハンマー』を読んで、「『テント』と似ている」以上に、自分が選択しなかったネタと似ていること、そしてもしそちらを選択していたとしても絶対こうはならなかっただろうということを思い、トリック観の違いというか作家性の違いというか、そういうものの存在を感じてすごく興味深かったのだ。
     そしてまた、もしかすると貴志さんもまたぼくと同じような思考経路を辿ってあのトリックにいたったのではないかということも。

     その時考えた「硬い」バージョンは、こうだ。
     現場は安アパート。布団で寝ているところに、ボーリングのボール(か水晶玉みたいなもの)が落ちてきて頭を潰された死体が発見される。玄関からも窓からも出入りはない。ボーリングのボールは、寝ている布団の横に置いてあるタンスの上に、クッションのようなものを噛ませて飾ってあったもの。地震でもあったか本人が寝ぼけてタンスを蹴飛ばしたか……そういった原因の事故かと思われる。
     タンスの後ろ側には太い柱があるのだが、部屋を隔てる壁自体が薄く、その柱は隣の部屋と共通のもので、結構な安普請、という設定。
     もう分かると思うが、犯人はまず、タンスの上のボールを、柱に押しつけておく。ちょっとの衝撃でボールが転がるようクッションの載せ方も調整する必要があるだろう。
     しかる後、被害者が寝入るのを見計らって、自分の部屋側の柱をゴムハンマーのようなもので思い切り叩く。……。
     どうしてこちらの密室を採用しなかったかというと、「安普請のアパート」という舞台設定のしょぼさと、タンスの上の重たいボールというやや不自然な「装置」が挟まることによって、『三毛猫ホームズの推理』的なシンプルな美しさが損なわれると思ったからだ。テントの密室というものは聞いたことなかったので珍しいだろうとも思い、そちらを書くことにした。

     さて、『硝子のハンマー』だ。こちらは安普請のアパートどころか、超ハイテクの要塞のような密室。舞台も魅力的だし、ディテイルも面白い。最新鋭のロボットに猿、監視カメラ。様々なセキュリティを一つ一つ突破する方法が描かれ、たくさんのもっともらしい仮説が出ては崩され、そしてやはり最後に鉄壁の密室が残ってしまう。で、あれだ。
     犯人は結局何度も現場に出入りして、砂糖に薬を仕込み、介護ロボットの操作もでき、窓ガラスにも細工をした。
     特に最後の点はちょっとがっかりだった。結局それだけ色々できたんなら、もっとましな方法があるように見えてしまう。薬を飲むかどうか、飲んでも目を覚まさないかどうか、しかも「死ぬかどうか」もあやふやだ。同じ設定ならせめて、窓ガラスに何も細工しなくても、あのガラスの厚みなら、たとえ防弾であっても、内側に接して置いた銃弾のお尻を叩いて発射させることが出来る、とかなんとか嘘でも言ってくれる方が好きだ。介護ロボットも使わなくてすむ(ミスリードのために置いてあってもいいが)。
     ぼくは、読んでいる最中面白いかどうか、ということよりも、最終的に浮かび上がる「構図」の壮大さとかシンプルさとか美しさとか、そういうところにどうしても惹かれてしまうようだ。
     物理的に納得できても、心理的に納得できないとやっぱりついていけない。トリックが準備が必要だったり手順が複雑だったりすればするほど、「なぜそんなことをしなければならなかったか」という説明も増えていくが、それも程度問題で、一定レベルを越えれば一見全部辻褄が合っていようとも「そんなことするやつおらんやろ」と脳が受け入れを拒否してしまう。
     多分、多くの人にとっては最終的な辻褄がどうとかいう前に、読んでいる最中ハラハラしたり謎また謎の展開が続いたりする方がいいんだろうとは思うけれど、性格的に無理なのだった。

     ちなみに、メイントリックの扱いは趣味ではないけれど、原作の前半はテレビドラマとはひと味もふた味も違う面白さなのでドラマしか観てない人は原作も読んだ方がいいと思うよ。(監視カメラを騙す手口とか、時代のせいで仕方ない面もあるけどテレビじゃカットされてたしね)
  • ブログが苦手なわけ

     ブログというものが流行りだした頃から感じていたこと。

     インターネットが日本で広まり出した当初、「ホームページ」という本来「トップページ」とほぼイコールの言葉は日本では「個人サイト」を意味する言葉として解釈され、定着した。恐らくだが「ホーム」=家というニュアンスを汲み取ったのだろう、ネット上にバーチャルな「家」を持つというイメージがあったように思う。
     だからその頃の「ホームページ」のほとんどのトップページは、そのサイトの顔であり玄関というイメージでデザインされていた。テキスト中心のサイトであっても、そこだけはちょっと凝った看板を掲げ、どういうサイトなのかをイメージさせるようみんな工夫していた。まず管理者のプロフィールを掲げ、メインのコンテンツや他サイトへのリンクを見やすく配置する。あくまでも「玄関」なのでコンテンツそのものはそこにはほとんどない。一番一般的だったindex.htmlというファイル名も「ここは目次を置くところだよな」という固定観念を植え付けたのではないかと思う。

     その当時からなぜか日本では「日記」をHPのコンテンツとして書くことが流行っていた。weblogとかblogとかいう言葉が入ってくる前で、その当時の認識としては「欧米人はあんまり日記は書かないのに日本人はなんで?」というものだったはずだ。日記はむしろ、「もっともローコストで増やせるコンテンツ」だったからだと思うのだが(「コンテンツをもっと増やさなければ!」という強迫観念があるゆえ)、日記文学、私小説を引き合いに出して日本人は太古の昔から日記が好きなのだと言う人もいた。
     いずれにしろ、htmlファイルを手書きしていた時代の日記というものは概ね上から下へ書き足していくものであり、初めてそのHPを訪問した人はプロフィールを見て興味を持てば、あえて「日記」と書かれたリンクをクリックして古いものから目を通す、そういう順序が一般的だった。

    「ブログ」が入ってきて、それまで「ホームページ」を作っていた人も次々とそちらに移行したし、持っていなかった人もどっと増えた。もちろん、手軽だったからだろう。htmlを書かなくてもいいし、ftpも知らなくていい。
     でもどうにも好きになれなくて、移行する気にもならなかったし、それまで読んでいた人々の日記もブログに移行した人のものはあまり読まなくなってしまった。
     今でこそブログだからといって「重い」ということはないように感じるが、サーバの問題なのかプログラムの問題なのか、とにかくページ生成に時間がかかったのもブログを嫌いになった理由の一つだ。
     自分がやらなかったのは、データはローカルにあって欲しいということが大きい。パソコン通信の時代からやっているせいか、「ログ」はダウンロードして読むもので、もちろん自分の書いたものも含めて全部ローカルにあるのが普通だった。そうではないブログというものに今ひとつ信用がおけなかった。
     でも、ページ生成もストレスを感じないレベルになり、データがローカルにない状態にもmixiやtwitterをやる間に慣れてしまった。

     それでもなおやはり、ブログ――というか、「ブログ的文化」は好きになれない。
    「ブログ的文化」とは、「プロフィールはないか、あってもほとんど無意味で、しかも背後に隠されている。自分が何者かよりも、今日何を食べたかとか、ある作品をどう思ったかをいきなりつきつける」文化のことである。「一見さんお断わり」あるいは「発言者ではなく内容だけ見てくれ」のどちらか、あるいは両方の思想がありそうだ。
     もちろん、ブログの形態を取っていても、きっちりしたプロフィールを書き、どういうサイトか分かるように気を配っているブログ主もいるし、「ホームページ」の時代でも、その辺がいい加減な人がいなかったわけではない。
     しかしシステムの都合上、そういう傾向が強くなるのは必然だったし、そして実際ブログを好んだ人々がそもそもそういう点を好んだ――少なくとも忌避しなかったということは言えるだろう。

     その後出てきたアフィリエイト、というものももちろん嫌いだ。欲しいな、と思ってもアフィリエイトリンクからは絶対買わないぞ、とさえ思う。

     まあそういうわけで、ぼくはこれまでブログには手を出さなかったし、ほとんど定期購読するブログもなかった。

     しかしその後、色々と変化はあった。一番大きいのは検索エンジンの充実だろう。(知ってる? 昔はグーグルもヤフーもなかったんやで?)
     昔は、一度見たページは、ちゃんとブックマークしておかないと二度と辿り着けないようなことさえあった。今は、あやふやな記憶でも適当に検索すればたいていヒットする。誰かの貼ったリンクに頼らなくても目的のページに簡単にアクセスできるようになった。
     読みたいのが膨大なブログのある一ページである場合、そのブログのトップページに飛んで遡っていくより、いきなり検索エンジンで必要な言葉を入れる方が早い。ブログを単なる倉庫と考えるなら、並び順も無意味だ。

     Twitterという、ブログ以上に刹那的なメディアに慣れたこともある。「今、現在のツイート」をいくつか読んでフォローをしたりするわけだが、多分ブログ以上に、過去のツイートを遡ろうとする人は少ないだろう。(たとえtwilogのように過去ログがあっても)現在と未来は重要だが、過去はあんまり問わない(単にめんどくさいだけだが)。一旦フォローしたら、よほど目障りならリムーブするが、そうでもなければ多少つまらなくても流れていくだけだからさほど気にならない。そういうメディアだ。
     始めてみると意外なほど性に合っていた。今やTwitterはぼくにとってはポータルサイトだ。ニュースもブログも、「知り合い」が紹介しているなら読もうか、という気持ちでどんどんクリックする。よほどのことがなければその飛び先の他の記事を読んだりブックマークすることはないが、それくらいでちょうどいい。何しろ情報が多すぎる。

     Twitterの最大の欠点はやはり長文が書けない、たとえ番号を振って書いてもバラバラにリツイートされたりして論旨が誤解されやすい、ということだろう。
     そんなわけで、あくまでもTwitterの補助として、倉庫としてここを用意したのです。
     決してブログを好きになったわけじゃないんだからね。
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