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  • 「シン・ゴジラ」感想

    『シン・ゴジラ』は特撮映画として、怪獣映画として、“娯楽映画”として一級品であると思うし、様々な美点を備えていると思いはするものの、世間の多くの人のように言葉を極めて「大傑作」とは喜べない自分がいる。当然、似たような感想を漏らす人も多いだろうと思っていたものの、案外そういった評を見かけない(そんなに知らない人の評まで漁っているわけではないのだが)。思ってはいるけど“ネタバレ”になるのを恐れ差し控えているだけなのか、それともぼくのようには感じない人の方が多いのか。(自分の観たい)人間ドラマがない、こんなのはゴジラではない、その他諸々この映画にひどく否定的な評もぼくの思いとはまるで違う。そんなわけで「映画評」というものとはいささかずれるにちがいない文章だが、少し長く書いてみることにした。

     まずは「娯楽映画としての」感想から。
     平成ガメラ('95~)における台風情報を模した「ガメラ情報」は、当時リアルタイムであれを観た人間は「ああ!」と感嘆したはずだ。そしてまた自衛隊(もしくはそれに準ずる存在)を、単なる噛ませ犬でない、全力で怪獣を撃退しようとする存在として描いたのもあのシリーズが初めてではないだろうか(そのことを政治的な意味と捉えて批判する人間もいるようだが、バリバリの護憲派のぼくから見てもそれはピント外れだと思う)。一方またテレビドラマシリーズ「踊る大捜査線」('97~)が見せてくれた「公務員である警察官」「役所である警察」像。
     これらは全部、「シミュレーションとしてのリアル」であり、「そうか、役所ってそうだよな」というような情報、知識そのものが持つ面白さであり、ぼくは便宜的にそれらをまとめて「あるあるのリアル」と呼んでいる。「あるあるのリアル」はもちろん、単なる「あるある」「常識」であってはならない。今まで無批判に再生産されてきたエンタテインメントの中の嘘を暴き、「そうか、ほんとはそうだよな」と思わせる説得力がなければならない。
    『シン・ゴジラ』は、これらの作品が目指した方向性、面白さをとことん煮詰め、シミュレーションして作られた現在最高峰の「あるあるのリアル」を備えた怪獣映画である。
     ただし「あるあるのリアル」を積み重ね、たくさん備えているからといって、ではそれは「リアルな映画」になるかというとそうではない。切り捨てられたリアルも山ほどあるわけだし、何よりこの映画の演技は、大杉蓮、國村隼といった超名バイプレイヤー数人を除けば、ほぼ全員大根――というかステロタイプな演技を強制されていて可哀想なくらいだ。冒頭の海上保安庁のビデオといい、アクアラインから避難する若者たちの言葉といい、POVの、本来ならもっと迫真性、ドキュメンタリー性があっていいところでの素人の棒読みは少々白ける。
     そして「役人は早口だから全員早口で喋ってくれ」と言われたらしいが、とにかく全編、難しい言葉の頻出する長台詞を俳優たちは誰一人噛まず、言い淀まず、聞き返さず、ああ、台本通り喋ってるんだなあ、という芝居が続く。それは「ある意味リアル」かもしれないが、別の視点から見ればまったくリアルではない。
     これは演技を気にしてはいけない映画なんだな、それならこちらもそのつもりで観よう、と思い最後まで観て思ったのは、これは「最高に金をかけた自主映画」だということだ。「アニメ」という意見もあるようだが、ぼくは全然アニメっぽいとは思わなかった。これはまさに自主映画で、そして金をかけただけのことはある、「最高に面白い自主映画」になった。「一点突破」は自主映画の特徴でもある。オタクがその情熱を一点に込めて作った映画なのだから、熱狂する人がいる一方、「思ったものと違う」とがっかりする人がいることも当然だ。

     さて、「最高に面白い」と言ってしまった。もちろん面白い、この映画は。ぼくの現時点での怪獣映画ベストワンは『ガメラ2 レギオン襲来』だが(2位以下は難しい。金子ゴジラ、ジャクスン版『キング・コング』あたりか)、観る前はもしかしたらこれらを抜いてしまうような傑作ではないかと期待していた。
     しかし、映画としての出来の良さ(演技除く)、ヴィジュアル、CG技術、あるある的面白さ、それらがあってなお、あるところから興奮は冷め、映画に入り込むことはできなくなり、傍観者のように見るしかなかった。
     放水車が出てきたあたりからである。
     メタファーという言葉は嫌いだが、ああいうのは多分メタファーとすら言わないと思う。「そのまんま」である。「現実の模倣」だ。あそこまでは、「ゴジラは○○のメタファーだ」「いや、そんなこと関係ない。ゴジラはゴジラだ」と解釈の問題で逃げられたのが、あそこで日本人は否応なく現実に引き戻されてしまう……と思ったのだが、そんな感想を目にしないところを見ると、そんなふうに感じたのはぼくだけだったのだろうか。それとも、多くの観客は、現実と照応してもなお、あそこで喝采を叫べる、ということなのか。
     血液凝固剤を経口投与、それもあのような体勢で、というのは、いくら理屈をつけようとシミュレーション的にもドラマツルギー的にも無理のある作戦だ(怪獣映画的には全然OKのレベルだが)。あんなふうにうまく倒せるか(というか、なぜあれでうまくいくと思えたのか)は目をつぶるとしても、あのように一応生物的な特徴を備えたゴジラに対し、「経口投与」で「血液を凝固させられる」となぜ考えたのかという不思議。特殊な胃で消化されるかもしれないし、そもそも熱線を吐ける器官に注ぎ込んで、薬が効くと期待するのも無理がある。血液を凝固させたいなら、なんとしてでも「注射」に近い方法を試みるのが普通だろう。米軍の爆弾で傷を負わせることはできたのだから、普通ならまずその道を探る。
     勘違いしないでもらいたいが、そういったあら探しをして「だからよくない」と文句を言うつもりはない。ぼくが思ったのは、「多少無理のある設定であっても、どうしても放水車のあの場面を撮りたかったんだな」ということだ。他の倒し方ではなく、あの方法でゴジラを倒したかったのだろう。そしてぼくはそこに、複雑な思いを感じざるを得ないのだ。

    『HEROES』('06~)というアメリカのドラマがあった。ぼくは実はこれを三話だけ観て以降観るのをやめてしまったので、全体としてどういう話かは知らない。世界中に突然ある日超能力者が生まれはじめ(覚醒、というべきか)、そのうちの一人が予知能力によって近い将来のある時点でアメリカ(ニューヨーク?)で起きる、911を想起させる高層ビル破壊シーンのヴィジョンを観る、というのが始まりだ。ああ、これを超能力者たちが協力して阻止する(もしくは敵味方に分かれて戦う)話なんだなと予想し、それが当たってるんだとしたら、ひどく幼稚な“救い”のドラマだな、と少々観る気が失せたものだ。超能力者によって911がなかったことになってハッピーエンドと言われても、現実はそうでないのに、物語を楽しめるものだろうか、と疑問に思ったわけ。(実際そんな話なのかどうかは知らないし、三話でやめたのはマシ・オカを見続けることに耐えられなかったことの方が理由としては大きいので、そんな話じゃなかったとしても「面白いから最後まで観ましょう!」とか言わないでね)
     事件から数年経つと、当然の事ながらフィクションの中の世界も「911後の世界」を少しずつ描き始める。あれだけ大きな社会的影響を及ぼす事件ともなると、そこに触れないことが逆に不自然になってもくる。『CSI:NY』('06~)の主人公は妻を911のテロで失っている。単なるキャラ付けでしかないのだが、たくさんの人が亡くなった事件をフィクションで扱う際には、そういうふうに背景として少しずつ取り入れていくのは慎重な選択だ。正面切って扱うなら、それは『ユナイテッド93』('06)のようなドキュメンタリー色の強いものとなるだろう。事件を中心的モチーフにしつつもまったく別のフィクションに昇華できるようになるのは、クリエイターだけでなく観客の側にも咀嚼し呑み込むだけの時間を要するのではないか。
     911がアメリカ人にとって衝撃的であったと同じように、もしくはそれ以上に東日本大震災と福島原発事故は日本人全体に大きな傷をもたらしたし、そして――ここが重要だが――今もそれはずっと続いている。911には明確な犯人――実行者がおり、またその首謀者と目されるグループに対し、アメリカはとことんまで“報復”することができた。グラウンドゼロはメモリアルパークとなった。着々と「過去」として乗り越えつつある(それらの過程すべてを肯定する気はまったくないし、今も続くテロや争いの源流が911にあることはもちろんだ)。一方、東日本大震災では被災して仮設住宅に住んでいる人がまだ大勢いるだけでなく、福島原発の事故によって故郷を追い出された人々もいる。そしていまだ汚染水を垂れ流し続ける原発は、溶け落ちた燃料棒の正確な位置すら分からず、収束の目処も立っていない。そして何より、驚いたことにあのような事故を経た後も、日本の原子力行政はほとんど変わらず、再稼働はもちろん、新設の話まで復活してきたということだ。
     全然終わっていない問題だ、という決定的な違いがここにはある。
     自然災害の多い日本において、そもそも怪獣は災害のように扱われる。ガメラ情報がテレビにL字で流されるように。
     東日本大震災で原発事故が起きていなかったなら。あるいは、原発の事故が起きていたとしても、何とかうまく収束でき、着々と廃炉作業が進んでいるなら。あるいは、原発はなくそう、という強いメッセージが政府から、そしてこの映画からも発信されているなら。ぼくも少しはあの放水シーンで悲しくならずに興奮できたかもしれない。

    『シン・ゴジラ』は円谷英二のいない世界であるらしい。それは別として、あの世界では東日本大震災は起きただろうか? 原発事故は? もちろん、起きていないだろう。あれは「311後の世界」でもない。津波と原発の両方のメタファーをしょったゴジラが、原発事故の起きていない日本の、東北でもなく福島でもなく東京にやってきて、東京だけを滅茶苦茶にしたあげく優秀な日本人政治家と科学者によって沈黙(撃退ではない)させられるパラレルワールドの物語だ。それはあまりに似ていて、あまりに違いすぎる。映画が、含みを残しつつもやはり一応のハッピーエンドを迎えた時、現実に取り残されたぼくは一体どんな感想を抱けばよかったのだろう?


     多分どうでもいいこと。
    1)長谷川博己と石原さとみが二人で立川のモノレール跡(ってテロップが出たような気がする)を歩くシーン。最初近くにあったカメラがどんどんどんどんどんどん引いていき、二人は右下の端っこに映るだけになるシーンがあるのだが、あれは笑うとこなの? 意味があるの? 大写しになるモノレールに何かあるのかと二回目もじっと観たのだけど何も見つからなかった。
    2)血液凝固剤を量産するために色んなプラントを総動員させなきゃいけません、ってとこでかかる威勢のいい音楽。ゴジラの音楽もエヴァの音楽も大体どこも合ってると思ったけど、あそこだけはちょっと選曲間違ってる気がした。あれもアリモノ?
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