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  • 死刑制度について

    mixiに十年前に書いたもの。ほぼ今も考えは変わっていないので転載。


     死刑制度について

     光市事件の判決が出た後、死刑制度廃止を望んでいらっしゃるあるマイミクの方の日記に、つい「死刑制度をなくすのは反対だけれど、もしなくすなら最低限終身刑の設置と復讐権を望みます」という意味のことを書き、何度かその方や別の方とコメントの応酬をしたのだけれど、どうも根底にある価値観が違っているようで、向こうの言葉も理解できないし、こちらの言葉も通じないようだった。
     思うに、死刑制度廃止を訴える人は、「絶対に人を殺してはいけない」「人の命はどのような人であっても尊い」といった価値観を持っているのだろう。いや、死刑制度存続を訴える人の多くもまた、その価値観には同意するのかもしれない。
     でもぼくは、実のところ「いかなる場合でも人は殺してはいけない」「殺人は究極の罪である」というふうにはそもそも思ってないのだ。
     もちろん、重い罪であることは確かだし、できることならそんなことはしたくないし、誰も人を殺さない世界が来たら理想的だ。
     でも人は――生き物はすべて、いずれ死ぬ。どうせ放っておいても死ぬものを、何年か何十年か寿命を縮める行為が殺人だ。人間のその後の時間とか可能性とかを奪いさる行為だとも言える。少し前に、「乳児の殺害は0.5人分」とブログに書いて炎上した準教授がいたらしいが、ぼくの考えを推し進めると、逆に赤ん坊を殺す罪の方が重い、ということにもなる(あんまりそうすっきりとは整理できないけど)。
     殺人という罪が大したことない、というつもりはなくて、それよりも、人間の尊厳を損なうような、たとえ生きていてもその後の人生を大きく狂わせてしまうような行為の方がよっぽど罪は重いし、許し難いように思う、ということなのだ。たとえば性犯罪などの最高刑を死刑にしても構わないと思っているし、それが無理でもせめて「去勢」という刑はぜひとも導入してほしいと思っている。
     そういう価値観の下に生きていると、死刑制度の何が「野蛮」なのか、犯罪者を抹殺することに対してなぜあそこまで強く抵抗を抱く人がいるのか、さっぱり分からないのだ。
     ある種の左翼系の人たちの中には(ぼくは自分も充分「左」だと思っているのだが)国家に対し殺人の許可を出すことに抵抗している人もいるようだ。冤罪を恐れている人も多い。でもそれはそもそも、警察権力とか司法制度、立法制度に対する不信感であって、「死刑制度の是非」とはまったく別の問題だとしか思えない。
     特に、「冤罪」。「冤罪の可能性があるかぎり、取り返しのつかない死刑という刑はなくしてほしい」という死刑廃止論者は多い。多いのだけれど、こういう言葉もぼくにはまったく説得力のある意見とは聞こえない。
    「冤罪」は「あってはならないこと」である。死刑制度があるかないかとは全く別に、捜査方針や司法制度の中で限りなくゼロに近づくよう考えていかねばならない問題である。「冤罪があるから」「死刑をなくせ」というのは本末転倒だし、一方また、「死刑じゃなくても冤罪は取り返しがつかない」とも思う。20年刑務所にいたけど冤罪が晴れてよかったね、死刑になってたら取り返しがつかないところだったね、というふうにはとても思えないのだ。その20年は返ってこないし、その間の精神的苦痛は想像もできない。たとえ痴漢であっても、冤罪を着せられ、多くの人に白い目で見られて会社をクビになって……などと想像するのは何とも恐ろしい。鹿児島の選挙違反事件で冤罪を着せられた人たちの悔しさもまた、相当なものだったろうと思う。
     少し前まで、まったく執行命令を出さない法務大臣もいたせいで、あんまり死刑は行なわれてこなかった。ちゃんと調べたわけではないが、事実認定(やったかやってないか)で疑いが残りつつ死刑判決が下り、なおかつ執行された例というのは、現行制度ではほとんどないのではないだろうか。冤罪の可能性をどれほど大きく見積もったところで数年に一人の話。交通事故死でいまだ数千人が死に、自殺者は三万人という現在、とても重要なポイントとは思えない。平沢貞通(さん、と言うべきか?)が九十五まで生きたのも、法務大臣に執行を躊躇わせるものがあったわけだ。一応は、様々なフェイルセーフ機能が用意されているということか。鳩山現大臣はこの半年足らずで十人執行したということらしいが、溜まり続けていたのだから彼を鬼畜呼ばわりするのは筋違いだろう(人間としては馬鹿丸出しだと思うけど)。これまでの法務大臣が法律を無視していたわけで、そんな人間はそもそも法務大臣職に就くべきでない。
     話がそれたが、「死刑」は確かに国家による殺人で、我々国民はそれに加担させられている。それを気持ち悪く思うのはある程度当然のことではある。
     でも、たとえば日本は「軍隊」を持たないと言いつつ人殺しの道具を山ほど購入して実質上の軍隊を育てているし、とても「防衛」になるとは思えないクラスター爆弾まで保有している。アメリカのイラク攻撃も支持し、協力した。日本国民はイラクでの大量殺戮に加担したわけだ。戦後日本で執行された死刑が全部冤罪だったとしても比べようもないほど、無辜の市民が殺された攻撃だ。
     ヨーロッパの多くの国やアメリカのいくつかの州では死刑を廃止し、国連は条約まで作っているようだが、本当に「人権」のことを考えて廃止しようとしてるんなら、犯罪者よりまず何の罪もない人を殺すのをやめろよ、と言いたい。町を爆撃しといて、何が「犯罪者の人権」なんだか。

     死刑廃止論者の論理のうちで唯一心を動かされるのは、刑務官のことだ。実際に死刑を執行しなければならない人間のストレスは、人によっては耐え難いものだろう。
     現在は確か、複数の刑務官が同時にスイッチを押して、誰が「当たり」を押したか分からないようになっているはずだが、だったらそこに遺族とか検察とか法務大臣とか一般見学者とかを混ぜてもいいのではないかと思う。死刑に犯罪の抑止力があるというのなら、もっと開かれたものでなければならない。
     現代人は、鶏が絞められるところも、牛が解体されるところも見ないまま、切り身になった肉、すでに調理された肉をおいしいおいしいと食べることができる。殺されるところを見なければ食べられないとしたら、今より遙かに多くの人間がベジタリアンになることだろう。でもぼくはベジタリアンになるより、他の命を奪って生きていることを直視できる人間になりたい。実際に屠畜に関わり、自分たちに代わって殺してくれている人たちがいることも忘れたくない。
     死刑もそれに似ている気がする。現在の死刑はあまりにも国民から隠され過ぎている。そのことがもしかすると、死刑存続派の増加に繋がっているという面はあるかもしれない。犯罪の報道は詳細にされるのに、死刑の実態は見えてこないからだ。

     コメントの応酬をしている時、死刑廃止派の方から「そうまでして誰かを死刑にしたいというメンタリティが分からない」と言われた。少し誤解されているようなのだが、「死刑制度を存続させること」と「誰かを死刑にすること」は別のことだと思う。死刑制度があるから死刑があるのではない。死刑制度がある中で、死刑になるような犯罪を犯す奴がいるから死刑になるのである。どのような罪が死刑に値するかは、個々の裁判でじっくり議論してもらえばいい。もし、多くの人が「これくらいでは死刑は重すぎる」と思うのであれば、少しずつ死刑は減っていくだろうし、死文化したって構わない。でも、死文化しても、万が一に備えて選択肢は残しておいてもらいたい。
     あるいは逆に、「死刑では足りない。カンタン刑を導入せよ」というふうに世論は変わっていくかもしれない。だとしてもぼくは大賛成ですけどね。選択肢が増えるのはいいことだもの。
     そういう意味で、コストの問題があるのかもしれないが、とにかく一刻も早く終身刑をまず導入するべきではないかと思う。終身刑とか、懲役二百年とかの判決が出せるなら、裁判官だってそっちを選ぶケースは多いのではないだろうか? 素人の裁判員たちならなおのことだ。刑務官と同様のストレスに素人が果たして我慢できるだろうか? 死刑判決は確実に減ると思うのだが、どうなのだろう。(2008.4.30記)
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