以下は1992年9月に発行された『殺戮にいたる病』四六版にのみつけられた「あとがきにかえて」と題した文章の一部である。四六版は確か7000部くらいで重版もしていないので余り多くの目には触れていないだろう。なので、21年近くも経ってまだ同じことを言わねばならないのかという徒労感をこらえて書き起こしたいと思う。(データがないので)
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(前略)
ある朝、新聞を開くと宮沢りえの全身ヌードが目に飛び込んできてのけぞった。もちろん去年話題になったあの写真集の全面広告である。彼女がヌードになったことにはさほど驚かなかったが、それが全国紙に載ったことには心底驚いた。
「わいせつ性がないと判断した」から広告掲載を決めたのだという。どこかの主婦が、「いやらしくないから息子に買ってやりました」と発売後に街頭インタビューで答えていた。
そういった下らない発言の洪水の中で、唯一救われたのは、写真家の荒木経惟氏の次のような言葉だった。「ワイセツじゃない写真なんか撮りたいとは思わない」
写真芸術にまったく理解のないぼくはその意味を曲解しているかもしれないが、とにかくこれには頷かされたし、心を動かされた。実際荒木氏の、静物ばかりを撮った写真集を見ても、その思いは感じ取れたような気がする。花が、靴が、それらのある空間そのものが何か“ワイセツ”なものとして切り取られていた。人を撮るのでなくとも、やはりそこには“ワイセツ”な視点があるからなのだろう。素晴らしいことだ。人間を主題としているのに、どうして猥褻なものをそこから切り離して考えることができるのか、そのことの方がぼくには不思議だ。芸術か「わいせつ」か、とさんざん昔から論争されてきたが、それら二つが排他的なものであると、一体誰が決めたのだろう。その猥褻性ゆえに芸術たり得るものは、存在しないとでもいうのだろうか?
宮沢りえ写真集に先立って、毎度おなじみのヘア問題というものもあった。篠山、荒木両氏の作品で女性の陰毛が見えているというので、両氏は厳重注意を受けたのだった。その時の審査委員の中には、「芸術性の高いものについてはよいのではないか」「篠山氏のものには芸術性が感じられた」と発言した人もいたそうである(猥褻性の低いきれいなヌード=芸術性が高い、という短絡的な図式が見えるように思うのはぼくだけだろうか)。
この時ぼくは心底ぞっとした。ヘアが見えたの見えないのなどと恐るべき低次元の論議をしているような連中が、創作における「芸術性の有無」を判断するような社会が到来したらどうしよう、と思ったのである。オーウェルの未来社会みたいなものではないか。そんなことになるくらいなら、「ヘアは駄目」と割り切ってくれたほうが遙かにいい。その判断をするだけなら、想像力はなくても視力さえあれば誰にでも務まる。ごくたまに見逃されて世に出たヘアには、われわれ馬鹿な男達が喜々として飛びつくことだろう。平和である。
(後略)
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もう一度言うが、この文章は21年前、ぼくが30の頃に書いたものだ。前後は長すぎるので削ったが、当時と今、状況はほとんど変わっていないし、それに対する意見も変わっていない。