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  • “イスラム国”について思うこと


    「“イスラム国”は国ではない」とか「彼らはテロリストで、単なる犯罪者集団に過ぎない」といった当たり前のことをわざわざ言いつのる人たちのことがよく分からない。
    「“イスラム国”という呼称のせいで国だと勘違いしている人」に単なる事実として間違いを訂正しているのなら分かるが、とてもそうは思えないのだ。
    “イスラム国”がもし国家としての体裁を整えていたらどうだというのか。国家のやることなら「テロ」や「犯罪」ではなく、「戦争」だから仕方ない、とでもいうような論理(心情?)が透けて見えて仕方ない。

     今回、二人の日本人が拘束され、殺害されたのは間違いなく悲劇的であるし、理不尽で犯罪的なことではある。日本政府、ヨルダン政府を脅迫し、挙げ句の果てに殺害映像をアップするというのは誰にとっても残酷だし、ショッキングであるのはもちろんのことだ。
     ――でも、それでもなお、二人の命は二人でしかない。戦闘員であるヨルダン人パイロットを入れても三人だ。
     イラクでは、アメリカの攻撃以来、十三万人を越える市民、戦闘員を含めれば二十万人が殺害されている。(https://www.iraqbodycount.org) 大量破壊兵器を持っていると難癖をつけて一方的に攻撃を始めたのはアメリカだ。そしてその攻撃を(なぜか)世界で真っ先に支持したのは、他ならぬこの日本。自民党、小泉政権だ。
    “イスラム国”はテロ集団で許せない、と言う人は、その六万倍の激烈さでもってアメリカを非難しなくてはならないのではないのか? 人の命の値段が国によって違うことはいい加減分かっているけれど、それでもひどすぎやしないだろうか?
    「“イスラム国”は他にも沢山のイラク、シリアの市民、外国人ジャーナリストを殺したりしている」? もちろん、六万倍という数字はいくらでも修正したって構わない。そもそもイラク攻撃がなければ“イスラム国”もなかったろうという根本的なことに目をつぶって、どちらがより多くの市民の死に責任があるのか貸借対照表を作っても構わない。いずれにしても、“イスラム国”をテロ集団と呼ぶならアメリカはテロ国家と呼ばなければダブルスタンダードであるということに変わりはない。
     ブッシュからオバマ政権に代わったとき、「イラク攻撃は間違いだった」と認める声明は一応あった。一応。――では日本は? 間違いを犯したのはアメリカであって、それを真っ先に支持しただけの日本は何の関係もなかったというのだろうか。少なくとも政治家、評論家、当時イラク攻撃支持を表明した人たちから反省の弁、総括の言葉を聞いた覚えはない。

     911の直後、アメリカの作家スーザン・ソンタグは「ニューヨーカー」にテロリスト擁護と取れなくもないコメントを書いて大バッシングを浴びた。当時何で読んだのだったか思い出せないが、昨年の朝日新聞での高橋源一郎の引用がネットにあったのでそちらから孫引きさせてもらう。(http://digital.asahi.com/articles/DA3S11367801.html
    『テロの実行者たちを「臆病者」と批判するが、そのことばは彼らにではなく、報復のおそれのない距離・高度から殺戮(さつりく)を行ってきた者(我らの軍隊)の方がふさわしい。』(原文はNewYorkerのサイトで今も読める)
     当時もまったくその通りだと思ったし、今回も同じことをずっと感じている。ここはNewYorkerではないし、世界的に有名な作家でもないし、911と人質殺害ではニュースの大きさも違うが、それでも正直こんなことを書くと炎上するのかもなとは思う。似たような意見をネットでもまったく観ないということもあり、自分の感覚は世間とは相当ずれているのかもしれないし。
     ソンタグがあのコメントを書いたのが911のわずか三日後でしかないというのは改めて知って衝撃を受けた。それ以前から考えていたことを、あの事件のその先を見通した上で、激烈な反応があることも承知で書いたのだろうから。そういう意味で、高橋源一郎が「同じような事件がこの国で起こったとき、同じような感想を抱いたとして、ソンタグのようなことが書けるか、といわれたら、おれには無理だ。そんな勇気はない。」という感嘆は恐らく半ば本気で半ばは謙遜だろうが、ものすごくシンパシーを感じる。

     残虐さ、ということについても考えさせられる事件である。
    “イスラム国”のやることは現代日本で安穏と暮らす我々にとって確かに残酷でショッキングではある。「卑劣」「残虐」「許し難い暴挙」……すべてもちろん我らが安倍総理も繰り返しおっしゃるとおりである。
     しかし、怒りで目を眩ませる前によく考えろと言いたい。もっとも犯罪的なことは、二人の(ほぼ)無関係な市民の命が奪われたことである、と。殺し方が残虐かどうかとかその光景を撮影して全世界に公開したとか、彼らの命を盾に無茶苦茶な交渉をしようと脅迫してきたとかではない。二人の市民が殺害されたことをまず中心に考えなければならない。
     首を斬って殺すのは残酷? なるほど。戦車で轢き殺すのはそうではないのか。ミサイルで一瞬にミンチにされる方がましか? 劣化ウランに蝕まれてガンになるのは仕方ない? ――残念ながら、これもまたアメリカが彼の地で行なってきたことと比べて特別どうということもない。
     首を斬ったり生きたまま火をつけるのは「分かりやすい」だけに恐ろしいことだが、何より我々が恐怖している理由は、「その映像が公開された」ということに尽きる。彼らが同じ殺し方をしたとしても、黙っていれば我々は恐怖しようがない。分からないのだから。あるいはもう少し言うと、「その行為を撮影し、世界に見せようというその神経」に恐怖しているとも言える。かつて我々が、小学校の校門に置かれた児童の首に戦慄したのと同じだ。これは世界を相手にした劇場犯罪なのだ。
     しかし、人間には歴史の知識も想像力というものもあるのだから、見せられていない光景だってある程度は考えれば分かる。二人の人間を拉致して自分自身の手で殺す行為と、何十人かの戦闘員を殺そうと爆撃して顔も知らない市民を数十人、数百人まとめて殺す(そしてその映像はあっても隠しておく)行為のどちらが本当に残虐か。全面降伏させるために広島長崎に二発も落とされた原爆は二十万人以上を殺し、その後も長く続く地獄を多数の人に味わわせたが、「テロ」ではないのか(ないんだろうな、多分)。
     残虐さの基準はもちろん、「命の価値の差」とも関わってくる。
     彼らはいうならば「野蛮」である。それは間違いない。生まれた時から紛争の連続で、沢山の暴力的な死にまみれ、またその手を血に染めてきた人間がほとんどだろう。自分自身もいつ死ぬか分からない。正真正銘の「常在戦場」だ。戦場にいる人間が人の命に対してシニカルになるのは当たり前のことだ。彼らに、他殺体の一つも見ることのないのが普通の国の人間が「命の大切さ」を説いたって通じるわけがないし鼻で笑われるだけだろう。生きている時代も、同じだと思わない方がいい。公開処刑が市民の娯楽だった時代の人間に、「悪趣味だ」と言っても仕方ない。日本人や欧米人の先祖がかつてそうであったのと同様、彼らはそうありたくて「野蛮」であるわけではない。人間は、そのような環境におかれればいくらでも「野蛮」で「残虐」になれるものだということだ。

     そしてまた、「貧者の核爆弾」というキーワードもずっと頭から消えない。これは核兵器よりはローテクで安価に作れる生物化学兵器を指した言葉だが、それらは現在は一応国際条約によって禁止されている。特別に危険視する理由はもちろん分からないではないが、「貧者の核爆弾」を、多数の核爆弾を所有している大国が(ばかりではないが)集まって「あれはみんな禁止ね!」と決めている光景のなんとグロテスクなことか。(そしてもちろん核兵器全面禁止条約は一向に成立しない)
     今回の「テロリスト集団」「犯罪者」「卑劣極まる」といった呪詛のような言葉からは、まったく同じ意志を感じる。「弱いものに武器を持たせるな」という意志だ。
     生物化学兵器が「貧者の核爆弾」なら、テロ行為(+インターネット)は「貧者の空爆」と呼ぶのがふさわしいかもしれない。たった三人殺しただけで、一体どれだけの効果を世界に――少なくとも日本に――与えたことか。そしてなんとも見事にうかうかとはまりこんでゆく安倍ニッポン。

     どうにもうまくまとまらないが、とにかく「野蛮人」に「君たち、野蛮なことはやめなさい!」と言ってもどうにもならない。彼らがそのような生活から抜け出さない限り、また、新たにそのような「野蛮人」が育つ環境をなくさない限り、永遠に彼らは生まれ続ける。
     彼らに報復をする行為は、単にこちらが「野蛮」の土俵に降りるだけのことだ。ずっとアメリカがやってきた「テロとの戦い」がまさにそれだ。
     今回の安倍政権の対応についてごちゃごちゃ文句を言う気は毛頭ない。恐らく小泉は何の覚悟もなくイラク攻撃を支持したのだろうが、日本人はあの時からずっとその戦いに「参戦」しているのだと思っている。911の当時、一瞬は日本国内でのテロの可能性についても心配する空気はあったはずだが、あっという間にそんなものは忘れられてしまっていた。今回のことで、自分たちが勝手に「参戦」させられていることは全国民が理解したはずだ。この戦いを続けるのか、それとも降りるのか。
     降りる、というのはつまりは、まずは「完全なるアメリカ追従」をやめるところから始めるしかない。イスラム諸国に、またパレスチナにも人道支援を行なっている、どちらの敵でも味方でもない、と本当にアピールしたいなら、まずアメリカから「距離を置く」ことだろう。安保を破棄する必要はとりあえずない。安保で取り決められたことだけは守ればいい。しかしたとえばイスラエルの非難決議に棄権してるようでは話にならない。(たとえアメリカの拒否権で議決されないことが分かっていても、だ)「集団的自衛権」のことなんか忘れろ。
     ……まあしかし、そんなことは無理なんだろうな。『日本はなぜ基地と原発をやめられないのか』を読んで、日本が思っていた以上にひどい属国状態だと分かってしまった今、どんな政権にも期待できないし、ましてや安倍政権では……。
     戦いを続ける、という選択肢を選んだ場合は、大国同士の戦争・領土侵犯といったリスクは低減するかもしれないが(そもそもこの70年巻き込まれていない)、テロのリスクは相変わらず続く――恐らく永遠に――ことを覚悟するしかない。
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