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  • 『探偵映画』について

     十年近く前、『探偵映画』と同じ設定のライトノベルがあって、しかもそれがよくできていると書いている評論家がいたので、当然気になって読んでみた。もちろん米澤穂信氏の『愚者のエンドロール』だ。
     書いた当人でも「バリエーション」が書けるような設定だとも思えない、一回限りのネタだと思っていたのでどう料理しているのかと思ったが……残念ながら、一体どこに評価すべき点があるのかさっぱり分からなかった。バリエーションを書くなら「かけ算」か、せめて「足し算」を見せてもらえると思っていたら「引き算」だった、という感じ。
     しかし、何より首を傾げたのはそのあとがきだった。初版文庫のあとがきにはこうある。
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     ミステリー好きの読者の皆様へ。お分かりかもしれませんが、本作はバークリー『毒入りチョコレート事件』への愛情と敬意を持って書かれました。クリスティは実は無関係です。かの傑作を相手にどこまで本歌取りがなったものか、それは皆様の判断に任せます。また、毒チョコ風味+映像には安孫子武丸氏の『探偵映画』という先例があります。未読の方は是非どうぞ。」(誤植は原文ママ)
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    「毒チョコ風味+映像」というのを読んで、目が点になったものだ。
    『毒入りチョコレート事件』も『探偵映画』も未読の人間は仕方がない。しかし、おそらくはミステリー評論家を名乗る人たちやマニアは多分読んで(くれて)いることであろう。その人達はこのあとがきを読んで、何とも思わなかったのだろうか。もしそうだとしたら、およそ行間を読むという力がないのか、ミステリのことが分かっていないのかどちらかだろう(行間が読めなければ当然小説を読む力もあまりあるとは思えないが)。
     きっと誰かが指摘するだろうし、若い、それもライトノベルの新人にクレームをつけるのもどうかと黙っていたらあっという間に十年。そして作者はあれよあれよというまにベストセラー作家になって、おまけに『愚者~』を含むシリーズがアニメ化されて書店に山積みになっているという現状。表紙が変わっているからもしかしてあとがきも変わっていたりして、と期待したものの、名前の誤植が直ったくらいでほぼ同じものが載っていた。『毒入りチョコレート事件』など読んだこともないし読む気もなさそうな層が多数手に取ることだろう。「誤解」がこれ以上拡がり定着するのは避けたいので、仕方なくこの文章を書くことにした次第である。

    1)『探偵映画』は「毒チョコ風味+映像」の作品などではないこと。
     『探偵映画』のキモは「未完成のミステリ映画の結末を推理するメタミステリ」であって、出発点ももちろんそこだ。
     複数探偵が議論しながら複数の推理が出てくる名作、というだけなら数知れない。『毒入りチョコレート事件』(1929)に先だって発表されたロナルド・ノックス『陸橋殺人事件』(1925)もそうだし、もっとくだればアシモフの「黒後家蜘蛛の会」シリーズを忘れることはできないだろう。これらの作品はどれも好きだし、深く影響を受けていることは間違いないが、特にそのどれか一作を意識していたわけではないし、『探偵映画』を書くに当たって、映画スタッフとキャスト自身がああでもないこうでもないと議論する形式にした時点で、多重解決ものになったのはむしろ必然だったろう(そもそも考えてみたらぼくはデビュー以来、本格ミステリにおいてはいわゆるホームズ=ワトスン形式の対話型探偵ではなく、必ず三人以上のチームを組んでディスカッションを繰り広げさせている。そういうのがとにかく好きなのだ)。
     しかしある時、『探偵映画』が他でもない、『毒入りチョコレート事件』に似ている、と看破した人が一人いる。ミステリ評論家の新保博久氏だ。
     '94年の文庫化の際にお願いした解説の中で、新保氏はこう書いている。
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    「(略)……ところで、こんど読み返してみて思ったんだけど、これはアントニイ・バークリーの『毒入りチョコレート事件』(創元推理文庫)に似てるなって」
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     ああなるほど、そういう見方もあったのか、とぼく自身新鮮な思いを抱いたものだ。
     親本発表時にそのような指摘をした人は誰もいなかったし、新保氏でさえ初読時にすぐそう感じたわけではないことが分かるだろう(解説の文章は、人形シリーズ風の対話形式をとっているので、必ずしも新保氏自身の生の言葉ではないのだが)。これはつまり、「評論家的な洞察」であり、一つの「切り口」であるに過ぎない。鋭い切り口だけれど、だからそれが正解だ、ということとは違う。何しろ作者本人でさえ正解など分からないのだから。
     そして、新保氏が『陸橋殺人事件』でもなく「黒後家蜘蛛の会」でもなく『毒入りチョコレート事件』を持ち出したことには、「複数探偵、複数推理」以外にもはっきりとした理由が一つだけある。
     それは、『探偵映画』において、キャストがほぼ全員自分自身の役を犯人だと主張する点だ。
    『毒入りチョコレート事件』の探偵メンバーの一人は、さんざん論理を積み重ねていったあげく、最終的に「自分しか犯人はありえない」という結論を提出する。登場人物たちはもちろん、読者も呆気にとられ、「何やそれ!」っと叫びたくなる印象的な場面だ。「犯人の自白」かと思いきや、それは単に証拠を積み重ねていくとそうとしか思えないだけで、わたし自身は自分が犯人ではないことを知っているのですが、と笑って言い放つ。結局その推理は間違っているわけだが、バークリー一流の皮肉と稚気に満ちた名場面(珍場面?)と言えるだろう。
     新保氏はこの場面について「『毒入りチョコレート事件』には自分を犯人だと指摘する心理的合理性がないが、『探偵映画』はその点自分を主役にしたいというはっきりした動機づけがある」とどこかで書いていたはずだ(てっきり文庫解説だと思って読み直したが見当たらなかった。どこだったろうか?)。
     つまり、『探偵映画』を「毒チョコ風味」と評することは「間違い」とは言えないが、この点を無視してはそもそも成り立たない話なのだ。


    2)『愚者のエンドロール』は『毒入りチョコレート事件』とはさほど似ていないこと。
    『毒入りチョコレート事件』はアマチュア探偵達が一堂に会し、現実に起きた事件についてディスカッションを行ない、一人ずつ推理を披露し、否定されていく構成だ。「黒後家蜘蛛の会」もそうだし、『探偵映画』もそのような形式に準じていると言っていいだろう。
     しかるに『愚者のエンドロール』はやや変則的だ。一人ずつ映画スタッフ(キャストではない)を部外者の「古典部」の面々の前に呼び出して推理を聞き、探偵役がそれを否定し、最後に探偵も一つ独自の考えを披露する。「映画の結末を推理する」というそもそも変則的なストーリーの導入もあって、作者自身の宣言がなければこれを読んで『毒入りチョコレート事件』を連想する人間がいるとはおよそ思えない。「複数探偵、複数推理」であるという以外に何一つ共通点は見いだせないからだ。もちろん、「自分が犯人だ」と名乗りをあげる人物もいない。「お分かりかもしれませんが」と言われても「そんなの分かるわけない」と答えるしかないだろう(複数探偵複数推理の作品が『毒入りチョコレート事件』しかないと思っていれば別だが)。
    「本歌取り」だという言葉を否定するつもりはない。作者が言うのだからそうなのだろう。ある作品にインスパイアされ、「同じような面白いものを書こう」としたとしても、かえってそっくり同じにはしないものだ。
     しかし、いずれにしても作者の意図とは関係なく、『愚者のエンドロール』はさほど『毒入りチョコレート事件』と似てはいないし、『探偵映画』は『毒入りチョコレート事件』と似てしまった。そして、どうした偶然か『愚者のエンドロール』はどう見たって『探偵映画』の方にこそ似ている。
    「毒チョコ風味+映像」の「先例」というのはこの点をもってしてもおかしなことだと分かるだろう。
    「未完成のミステリ映画の結末を推理する話には『探偵映画』という先例があります」とはっきり書いてもらえれば、誤解の生じる余地はなかったのだが。

    3)ついでに「ホタエナッ!!」について
     昨年末、声優としても有名な関智一氏が主催する「ヘロヘロQカムパニー」という劇団の上演した「ホタエナッ!!」というお芝居のプロットが、『探偵映画』の外枠をほぼなぞるようなものだったというちょっとした「事件」があった。あくまでもプロットに過ぎず、すべてのセリフ、劇中映画の内容等は完全にオリジナルのものだ。
     脚本家の方は当初から『探偵映画』へのオマージュ作品であることを公言しており、「盗用」の意図などなかったことは明白だった。ただ、公演情報等にそのような表記があったわけではないので、一部の観客の中に不審を感じた方がいらっしゃったのは致し方のないことだったろう。
     主催の関氏から経緯の説明とお詫びがあり、当該の舞台のビデオを送っていただき拝見したが、小説ではなく演劇であること、ミステリよりはずっとコメディを目指したものであることなどから、楽しく観ることができた。原作・我孫子武丸と書いてくれというにはあまりにオリジナルになっていて、さりとて何一つ書かないとやはり観客に不親切であろうと話し合い、「参考」という言葉しか思いつかなかったので、現在発売中のDVDにはそのように書いていただいている。通販で購入できるはずなのでご興味のある方はご覧ください。
     ちゃんとした原作として、漫画化や映像化されることはもちろん嬉しいけれど、こういう形で「別の物語」の中で自分の作った形式が再利用されることも、結構嬉しいものではある。その形式に、それだけの利用価値があったということだから。――ただしそれも、作家の方に、元ネタに対する愛情が感じられれば、の話であることは言うまでもない。
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