船岡山は、平らな京都の街なかでは珍しい、ビル五階分程度の小さな山だ。普段は近所の人が散歩に来るくらいで、観光客はまず来ない。しかし最近は、五山送り火のうち、南の方にある鳥居型を除く四つまで一度に見渡せることができるスポットとして知られてきており、毎年この日――八月十六日だけは多くの市民と観光客で一杯になる。心配された空は幸い持ちこたえていて、今年の送り火は無事八時にスタートした。
右大文字、妙・法、舟形と続き、そして今はやや北西の間近にある左大文字の火が燃え盛っている。公園の観光客達は絶好ポイントを求めてぞろぞろと移動し、ビデオやケータイカメラを構え、歓声を上げる。
「この人たちのうち何人が送り火の意味を理解してるんやろうね」
君は苦々しげに言う。
観光客のほとんどが、五山送り火を「大文字焼き」と呼ぶ。どら焼きとか今川焼きみたいに。京都市民にしたって「夏の風物詩」と思ってる人が大半だろう。
「こんなふうに送り火を見る日が来るなんて、思ったことなかった」
君の目から涙がこぼれる。
もう泣かないで。ぼくは言ったけれど、もちろん君の耳には届かない。届いても、同じことだとも分かっていた。
右大文字の火はもうほぼ消えていて、左大文字の火勢も弱まってきた。もうそろそろ帰る時間だ。
ぼくはゆっくりと上空へ昇り、あるポイントで止まった。そこからだと実は、最後の送り火、鳥居型がまだ赤々と燃えているのが見えることに気づいたのだ。ここならまだもう少しだけ、君の姿を見ていられる。
周囲を見回すと、同じように浮かんでいる人たちがいるのが見えた。驚くほどたくさんの人々だ。ほとんどがお年寄りだったが、中には若い人も、子供もいた。
みんな黙って下を見下ろし、最後の鳥居型の炎が燃え尽きるまで、大切な誰かを見守っていた。