僕はモノレールを降りるとズボンの右側を探りながら改札口へ向かった。乗車券は僕が改札口にたどり着く前に取り出され、僕は歩く速さをほとんど緩めることなく改札をすり抜ける予定だった。ズボンのポケットの中で乗車券の角が人差し指の腹に当たり、チクッと軽い痛みを感じるはずだった。だがいくら人差し指をかき回してみてもそこにあるはずの乗車券は見つからなかった。僕は歩きながらズボンの左側のポケットを探った。さらに上着の内ポケット、そして上着の左右のポケットまでをも探るはめになった。それはまったく僕の予定していなかった行動だった。そして僕はとうとう乗車券を見つけ出せないまま改札口までたどり着き、そこで立ち止まってしまった。
僕が人ごみの中に出るのはずいぶん久しぶりのことだった。もともと僕は都会の雑踏が苦手で混雑する場所に出向くことをなるべく避けている。改札口で立ち止まっていると、見知らぬ顔という顔が恐ろしいスピードで次々と僕を追い越した。中にはあからさまに邪魔だという顔をしたり、激しく打つかったりするものもいた。僕は自分の足がすくむのを感じた。そして、このまま自分がパニックに陥ってしまうんじゃないかという不安に陥った。頭の中が真っ白になり、そうでなくても元々脆弱な僕の方向感覚はほとんど麻痺しかかっていた。次から次へと流れてくる見知らぬ顔。全部が全部見知らぬ人なのだ。見知らぬ人とはいえ彼らはみんなそれぞれにいろいろな人生を送っているはずだ。そんなことは頭では理解している。しかし、その感覚は実感としては湧いてくることはなかった。
僕は幼い頃の自分を思い出した。保育所に預けられたときのことだ。僕は保育所に来る前は、母親が病気だったこともあって、その両親すなわち祖父母に預けられていた。祖父は僕に世界の名文学と数学を教えることが生きがいだった。僕は祖父が仕事をしている間、そして祖母が家事をしている間、つまりそれは一日の多くの時間ということになるが、その間を一人で過ごした。小学生が読むような海外小説をひたすら読み、小学生が解くような算数の問題をひたすら解き、残りの時間は空想に耽ることに費やした。僕の頭の中には、僕をまるで空から俯瞰するようなもうひとりの<僕>が生まれていた。もうひとりの<僕>は僕がひどく悲しくなったときや窮地に追い込まれたときに現れて、命令するような口調で自分の考えを述べた。
保育所は僕にとって地獄のような場所だった。いっしょに預けられた見知らぬ子どもたちは、僕にはさっぱり意味の分からない奇声をあげながら体育館の中を走り回っていたし、そうやって走り回る理由も僕には全く理解できなかった。僕だけが止まっていた。僕はドーナツの穴だった。その他大勢の子どもが僕の周りをすごいスピードで走りだした。彼らの奇声は互いに反響し合い、不快な騒音として僕の鼓膜を刺激した。思考の邪魔だった。黙れ。僕はその場にうずくまり、両耳を手で塞いだ。しばらくそうしていると、母親が迎えにきた。
「耳を塞いでうずくまっちゃうんですよ」と保母が言い、母が謝った。僕は3日で保育園をやめた。
なんとか足に意識を集中して僕はゆっくりと歩き出し、改札口そばの事務室に向かった。
「すいません。切符を無くしてしまったようなんですが……」
事務室には制服を着た若い女がいた。
「どちらからお乗りになりましたか?」
そのとき僕は乗った駅の改札機に切符を差し込んだまま取るのを忘れたことに気づいた。
「市民広場駅です。いや、でも信じてくれなくてもいいです。始発駅からの料金を払うのでどうか出してくれませんか」と、僕はおどおどしながら言った。
「ちょっと待ってください」女は僕とは目を合わせずに、奥に引っ込んだ。上司にどうしたらいいか訊ねているようだった。
「どうぞこちらから出てください」と女は言って、事務室の横の出口にかかっていた鎖を外した。
「あ、料金はいいんですか?」
「よろしいです。でも、今度から気をつけてください」
「すいません」
そのときは女の機嫌をそこなわないよう精一杯振舞ったのだが、しばらくすると、どうして僕があんな若い女におべっか使わなくちゃならないのだろう、たかが数百円のために、などと後悔し始め、腹が立ってきた。
僕は再び歩き出した。だが足は自分の意志で動いているというよりも、誰かに動かされているような不思議な感覚だった。こうして雑踏の中に自分がまぎれると、自分もこの群集の中のたった一人に過ぎないことを痛感させられる。幼い頃は天才だ神童だとちやほやされて育てられ、IQの高さに驚いた小学校の担任には特別扱いされもしたが、結局僕は平凡な若者としてこの雑踏を形成する一要素としてとぼとぼ歩いている。自分とは何か、生きる意味とは何か、昔から幾多の天才哲学者が悩んだ問題も、現代の思想では結局、自分などいない、生に意味などない、という結論でとどまっている。僕は人込みの中の一粒に過ぎないのだ。知らず知らずのうちにシステムの中に組み込まれ、システムの規則に従って動かされている。自分の言葉や自分の考えなどというものもない。それは文化というシステムによって僕の中に仕組まれたソフトに過ぎない。
僕の目の前では幾多もの黒い頭がうごめいていた。僕にはその黒い頭がすべて同じように見えていた。それはもはや人間ひとりひとりの頭ではなく、僕の視界をさえぎるただの黒い物質だった。僕はこの雑踏の中に、ロングコートに身を包み右手に皮の鞄を下げて急ぎ足で大股で歩く老人を見つけた。どうしてその老人だけが目に留まったのか、僕は不思議に思った。その老人の顔がどこかで見たことのある顔だからなのかもしれない。しかし、いつどこで出会った人なのか、いくら考えてもどうしても思い出せなかった。