秘密のメモリーメモルノフ、ドゥワー♫

  • Kさんとの会話 詰所内極秘資料 持出し禁

    あー、またKさんと差しで話すのかよ。気が重いよ。
    でもナースステーションで君たちにとり囲まれてそこに監禁され、Kさんをなんとかしてくれって詰め寄られたときの方がよっぽど苦痛だったけどね。

    まず僕の個人的な考えを話しておくと、今の全身状態が落ち着いているとはいえ(そしてたぶん努力したとしても今後も)、Kさん一人で自宅介護させるのは患者を殺すようなものだと思っている。

    一人じゃ介護できないっていうことを一度は納得させるためにとか、とにかく一度出て行って欲しいとかいうのが根拠なのならば、それは拒否する。僕も君たちの気持ちはわかるけど(ここが大事。人間は気持ちはわかるけどどうにもできない生き物なんだよなあ)なぜならやはりそれは生命を危険にさらすことになると、医学的に判断せざるをえないからです。

    春に在宅介護に向けてどういう方向性でいくのか、ケアマネ関係2名、どっかのケアマネ関係の人1名、その他区役所のナントカ部門とか市役所のナントカ部門とか(福祉だとか在宅介護だとか障害だとかそれそれはいろいろと担当が分かれていて)、その役人みたいのが3名ぐらいきて、それに師長や私が加わって外来に入り切らないくらない人数で第一回の打ち合わせが行われた。

    正直こんなの何回も続くの?って思ったよ。まあみんなそれぞれなりに、Kさんの性格や住んでる家のこととかを知っててさ、在宅にいたるまでの道筋、訪問医療、ヘルパー、ベッドは介護ならレンタルだけど障害なら支給になるとか、現在の住まいの構造に致命的な欠陥があるから在宅するなら別な場所に引っ越したほうがいいとか、手続き的にも現実的にも問題がいくつもいくつも山積で、そのときは64歳だったけど64歳でも介護申請できる条項を探すか、だめなら65歳になるのを待つしか無いですねという話でお開きになりかけたんだけど、その中のKさん夫妻をよく知るというスタッフが、正直な話しいろいろな理由で在宅は無理だと思うんですが先生はどう思いますかと聞かれたので、僕も、たぶん1週間持たないと思いますと答えた。
    それで何となくその会合はあきらめムードで終わったんだよね。

    今日、君たちに詰所に監禁されて君たちの不満や不安をいろいろ聞いた後、僕はさっそくK氏を体育館の裏、ではなくて外来に呼び出したよ。一応話の途中で声を荒げる予定もしていたので、歯止めがかからなくなったら困ると思って、絶対に温厚な院長に立ちあってもらった。院長は、私も何度も言ってるんだけどねー、って言ってた。世界中の人が院長みたいに平和な人だったら、ひょっとしたら世界は平和になるのかもしれないね。僕はひょうひょうとして優しい人柄だと思われているふしがあるけど、本当はきれたら恐いらしい。そんなところをお気に入りの香織ちゃんに見られて嫌われたら困るから、香織ちゃんには出ててもらったよ。

    はじめはおだやかな雰囲気でいつもの状況報告から始めた。褥瘡も回復傾向を見せており、縫合するチャンスを伺っていること、肺炎も落ち着いており、急性期ではなく慢性状態であることを伏線で説明した。分かりましたか。分かりましたと笑顔で答えた。ここまでは笑顔。

    ここで笑顔を消して口調を豹変させる。
    ところでさあ、Kさん、在宅在宅ってしつこく言ってたけど、今でも家に連れて帰りたいって思ってる?
    そしたら返答はこう。もちろんそういう希望はありますが、現実問題として無理かなと思っています。やはりなにか合ったときに病院にいたほうが安心かなと。
    以前に比べて少し現実的にはなっているようだった。

    じゃあいずれにしてもこの病院に長くいることになりますよね。
    と、僕は声色を変え始めた。
    それじゃあちょっと、あらためてKさんに話がある。
    そして僕はちょっと表情を険しくする。

    褥瘡の状態も回復してきているってさっき言ったよね。だから、体位変換の時間も厳密でなくてよいよう指示してある。状況は変化するんですよ。だ・か・ら、「数分」遅れたぐらいで大声で怒鳴ったりするようなことは謹んでもらえないかな。

    ど、怒鳴ってませんよ、ただちょっと…とKさんはとぼけだした。
    数分なんてことはないよ、ときには20分も30分もこないことがある。
    俺が昼間いるときはいいけど、夜とかいったいどうなってんだか……。

    さっきもいったけどさ、奥さんは今は慢性状態で安定しています。それに患者さんはKさんだけじゃありません。いいですか。2階は比較的重症なかたばかり入院しています。現在安定している3階のKさんよりもそちらを優先する頻度が高くなります。夜間はその重症な2階の患者をほとんどひとりで見まわるんです。部屋に行かなくても詰所には監視モニターもありますし、急変には充分対応できると思いますが。20分30分は別に非常識な時間でなないと思います。

    ちがう、俺が言ってるのは夜じゃなくてほとんど昼の話だ。昼なのに20分も30分も来ねえんだよ。

    あのねKさん、正直にいっちゃうよ。もうスタッフの大部分がね、あんたを怖がってさ、あんたのいる部屋へは足がすくんで入れないっていうんだよ。今日はKさんの部屋の担当だって分かると、その日は朝から気が重いんだってさ。スタッフ全員の士気が下がっている。これではどんどんスタッフがKさんから遠のくよ。お互いに不幸なことじゃないの?

    いや、俺が文句いったのは全員じゃない、一部のナースだ、2,3人のことだ。

    ここで僕もきれかかる。あんたねー、さっきからああいえばこういうだろ、俺とでさえもう喧嘩状態になってきてるじゃないか。あんた俺とも喧嘩したいのか?

    い、いやー、と汗をかいてびびり始める。

    あんねー、2,3人に怒鳴ろうが全員に怒鳴ろうが同じ事なの。2,3人怒鳴られたら、スタッフたちはみんな自分たちが怒鳴られたって思うだろ。しかも理不尽だったり、決められたとおりにやってるのに文句言われる、怒鳴られる、あんたもつらいのはよく知ってるけど、スタッフだって人間なんだよ、弱い人間なんだよ、恫喝されて傷つかない人間がいるかい?

    ここでKさん、うつむいて考えだし、そうだな、2,3人だろうが全員と同じ事だな、とかつぶやき出し、だんだんしおらしくなる。

    お互い感情的になってさ、信頼感失ってさ、なにもいいことないじゃん。

    「そうそう、感情的になるとね」とここで院長が初めて発言する。絶妙な合いの手。世界中が院長みたいな人だったらいいのに。

    あんね、院長にとっても僕にとっても、彼女たちは大事なスタッフなの。スタッフを食わしていかなくちゃならないし、スタッフなしじゃ仕事できないの。そのスタッフたちが、Kさんがいるために仕事できないっていうことになったら困るわけよ。僕らとしてはスタッフを優先せざるをえない。

    ということは、病院を移れということですか?

    ま、そういうことになるね。

    それは自分で探して?

    最悪ね。現実問題としてそうなったらもちろん当たってみてあげるけど。まあそれはおいといて、お互いなんの得にもなってないじゃない。これじゃ誰も幸せになれない。僕からみてスタッフたちはちゃんと看護計画を立ててそのとおりに頑張ってやってると思うよ。そこに理不尽な過度なクレームで怒鳴られちゃ誰だって士気が落ちるでしょ。しかも院長が何回も禁酒だっていってるのに、昼間一回家帰って酒のんで、酔っ払って病院来てるだろ。まあこっちだっていろいろ行き届かないところが多々あるのは認めます。申し訳ないです。だけど、他の患者さんもいるし、Kさんだけっていうわけにもいかない。そこんところぜひ理解してください。

    このあたりから落ち込み始めて涙ぐむ。俺が全部悪いんだとかつぶやくようになる。

    Kさんもさっきは病院でっていったけど、本当は理想的にはもっと良くなって家に連れて帰りたいんでしょう。当然だよね。だけど現実問題としてそれは無理だと思い始めているんでしょう。頭では分かっているけど、感情的には家に連れて帰ってやりたい、その狭間で苦しい思いをしているんだ、きっと。だからつい酒で紛らわせちゃうし、いらついてスタッフに怒鳴りかかったりするんだ。違いますか? と急にやさしくなる僕。

    全くその通りです。と号泣する。

    お気持ちは充分理解していますけど、スタッフも人間ですので、どうか暴言や過度なクレームをスタッフに直接浴びせかけるのだけはやめて欲しい。これは私からのお願いです。と僕は頭を下げた。

    そんな、先生が頭をさげるなんて、とびっくりするK氏。

    ただし、これでハッピーエンドでは終わらせないよ。
    今後は何かご不満な点、つーか文句があったら、ナースに云わないで、院長か僕か事務長に言ってください。いいですか、絶体ナースに直接言うなよ。僕に言え。今度ナースへの暴言があったら、本当に他に移ってもらうからな。

    以上のようなやりとりをしました。

    その場では本人も泣き崩れて相当反省したようには見えたのですが、僕はまだ信用していません。ほとぼりがさめた頃にまたやる可能性が高いと思っています。そのときは約束通り、他へ移ってもらうこととします(すでに具体的に事務長と候補を検討中)。

    ですので、あまり気にせず普通に対応してください。
    怒鳴られたらその時点でアウトですので僕に連絡してください。
    怒鳴られても危害を加えられるわけではないので安心してください。
    僕は大学時代の教え子に関西方面全域を支配していた暴走族リーダーとか保護観察中の研修医とかがいましたし、商売柄ヤ◯◯の上層部の治療をしたこともあるし、この程度ではなんとも思ってません。うそです。ほんとは1000床の巨大大学病院でのクレーム担当をやったことがあり、もうそれがコリゴリで精神に異常をきたして北海道に帰ってきたので、こんなことはほんとうはヤなんです。だから金輪際、ナースステーションに監禁して脅迫してこんな役目を僕に押し付けるなんてことはしないでくださいね。
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