秘密のメモリーメモルノフ、ドゥワー♫

  • 草場くんの記憶

    小学校三年生にしてすでに、草場くんは人の笑いをとらなければ気が済まない人間に育っていた。

    転校してきたばかりの僕を後ろの席に目ざとく見つけた草場くんは、「おれ草場たかし」と名乗った。
    「くさばたかし?」
    「あ、今おまえ、くさばかっていわなかった? ちがうちがう。く、さ、ば、か、た、し、あれ? くさばかだー」
    そしてものすごく不自然で滑稽なポーズをとったまま、リコーダーをプップカプーと吹いて、さっそく僕を笑わそうとした。

    次の瞬間、草場くんはバランスを崩して倒れてしまった。ものすごい音がして草場くんの顔が木の椅子の縁に激突した。

    草場くんは立ち上がった。そして、軽くおじぎをするように30度ぐらいの傾斜で上半身を少し下に向けていた。頭と背筋は定規を当ててもぴったり隙間がないくらいに一直線だった。両手はまるで気をつけをしているみたいにまっすぐで躰にぴったりとつけられていた。右手はリコーダーの真中あたりをしっかりと握っている。

    草場くんはそのままの姿勢で微動だにしなかった。ただ、草場くんの右のまぶたの上あたりがぱっくりと割れていて、そこからボタボタと真っ赤な血が流れ落ちていた。その血は草場くんの微動だにしない見事なお辞儀姿勢によって、正確に木の椅子のど真ん中に落ちて溜まっていた。

    あれだけおしゃべりだった草場くんは何もしゃべらないでいた。無言でただただ自分の血がしたたり落ちて、椅子の真ん中にうまく溜まっていくのを瞬きもせずに見つめていた。

    僕は草場くんのその姿に見とれていたので、しばらくまわりの音が耳に入らないでいた。気づくと、まわりの男子はみんな「草場!だいじょうぶか!草場!だいじょうぶか!」と何度も何度も叫んでいた。

    やがて先生がやってきて、草場くんは抱きかかえられてどこかへ連れていかれた。その後もまわりは少しざわめいていたけれど、ちょっと経つとみんな普段と変わらない態度に戻った。

    「草場くん、大丈夫かな?」ととなりの子に聞いたら、「草場はおっちょこちょいだから、いつも大怪我をするんだ」と、前を見たままで答えた。

    それが僕が草場くんを初めて見たときのことだ。

    その後五年間に渡って、僕は何度も草場くんに大笑いさせられることになる。

    草場くんがクラス会の出し物で本格的なコントをやったときには笑いをとおりこして感動さえ覚えた。そのときの草場くんと伊藤くんのセリフは今でも耳に残っている。
    繰り返される草場くんのボケにとうとう堪忍袋の緒が切れた伊藤くんが「ふざけるな!」といって草場くんをどつくんだ。
    するとすかさず草場くんが「ふざけなきゃおもしろくない!」と返す。
    ここでクラス中がどっと笑いに包まれ、一瞬教室全体が揺れる。
    「ふざけなきゃおもしろくない!」といったときの草場くんの顔が真剣で、少しも笑っていないところがいっそうおかしかった。
    だけど、今僕の脳裏に残っている「ふざけなきゃおもしろくない!」といったときの草場くんの真剣な顔は、本当に心の底から真剣だと思わせるほどの真剣な顔だ。

    僕が中学校に入ってからまた別の土地へ引っ越してしまったあと、友だちから手紙がきた。草場くんの投稿が萩本欽一のラジオ番組「欽ドン!」で大賞をとったという知らせだった。実は僕はそのラジオ番組を聞いていたので、草場くんが大賞をとったことはリアルタイムで知っていた。僕はそのときも、微動だにしない姿勢で顔から血を落としていた草場くんを思い浮かべながら聞いていた。友だちの手紙によると、地元では同級生がみんなで草場くんを胴上げしたそうである。僕は転校ばかりしていたので別れには慣れていると思っていたのだけれど、その胴上げの話を読んだときは、僕がその輪の中にいなかったことが少しだけくやしくて、ちょっとだけ寂しくなった。
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