オヤジの記憶といっても、相当ボケて車椅子生活ではあるがまだ生きてる。最近は食べ物の飲み込みが悪くていつも口の中いっぱいに食物をためている。
家族みんなでBShiのギター番組を見てたら、でかいギター弾いてる外人のじーさんが出てきて、これ誰だろねーとか言ってた。そしたらオヤジが突然口の中の食物をだらだらとたらしながら、「ナルシソ・イエペス」と叫んだので、みんな唖然とした。僕らは不思議そうにオヤジの顔を見た。テレビの音以外は静寂だった。自分を見ている家族を、お前ら分かっちゃいないなあというような顔つきで見返したあと、オヤジはまた口から食物をたらしながら、「禁じられた遊びだよ」と言った。
こないだ咳き込んで熱をだして寝込んだとき、「もうお迎えがくるのかもしれん」なんて言ったけど、診察したところどうみてもたいしたことがなかったので、ただの風邪だ、寝こんでばかりいたら本当に寝たきりになる、さっさと飯を食えといって無理矢理起こして車椅子にのせて茶の間に連れてきた。
「お迎えがくるとか言ってたけど、そろそろあっちの世界へ行きたいのか」と聞いてみたら、驚いたような顔をこちらへ向けて「まだ未練がある」とはっきり断言した。自分で歩くこともできず、本も読めなくなり、最近は自分で飯を食うこともできないくせに、いったいこの世の何に未練があるのが、死ぬ前にやり残した何をやりたいのかさっぱり理解できなかったが、そのあまりにも力強い断言は揺るぎのない信念に基づいているように思えた。
「未練がある。大いにある。あるなんてもんじゃないぐらいある」とオヤジはさらに繰り返して強調した。かつて読書家だったオヤジらしく、妙に文学的な強調だった。
「そんなに未練があるのなら、まずその目の前にあるテルミールを飲み干せや」と僕は言った。飯をあまり食わなくなったオヤジにとってテルミールは重要な栄養源だった。オヤジは気が進まないような素振りで仕方なくテルミールの入ったカップを口元にもっていったが、ちょろっと舐めるとすぐにテーブルに戻した。
「なんだよ、全部飲めよ。飲まなきゃお迎えが来るぞ」と僕が怒ると、オヤジはテルミールという栄養食の味がいかに不味いのかについて講釈し始めた。「だめだ。これは薬なんだよオヤジ、良薬口に苦しだろ」と説得したが、やっぱり要らないという。僕がもう一言何か言って説得しようとしたとき、痺れを切らしたオフクロが親父の口を開けて、残ったテルミールを全部オヤジの口の中に流しこんでしまった。
オヤジはいかにも不味いと言わんばかりに顔をしかめながら、オフクロがちょっと席を外すと、「あいつはちょっと頭がおかしい。そうは思わんか」と僕に聞いた。
今のところ、こうしてオヤジのこの世への未練は何とか保たれているのである。