hence, thus, therefore

  • 「浮気」についての哲学的考察ー③

    (続き)

      さて、これまで見てきた九鬼の分析は「いき」という現象であり、「浮気」そのものとは幾分か隔たりがある。まずあげられるのが時代的制約であろう。九鬼自身、『「いき」の構造』執筆において、「いき」という現象の普遍性を説いているのではなく、あくまでそれが江戸文化における日本民族に特殊の現象であると認めた上でその現象の解明を解釈学的に進めているのである。ただし上の記述を見たかぎり「いき」という現象は死んだ現象ではないことが分かる。そう言いながらも「いき」という言葉そのものはほぼ死んだと言わざるを得ない。少なくとも我々が日常的に用いていないかぎりにおいて、それは過去の言葉であろう。したがってその意味で、「いき」は我々が知っているところの「浮気」という現象ではない。しかしそうはいっても九鬼の「いき」の分析は現在の「浮気」という現象を開示する頼りとなる。
      まず何よりも「いき」の根柢に据えられた「媚態」という二元的可能性は、「浮気」という事態の根源性にも通ずるものであろう。

    しずかな日常を壊す、突如現れた他者。それはとりもなおさず「媚態」の出現であろう。

    私にはこの事態は「まなざし」ないしは「視線」という契機によって現れるものと思われる。男が女に、もしくは女が男に「視線」を送る。それを相手が返すか返さないかは、媚態が成立しうるか否かと同義である。つまり視線を返した場合、二人の間に媚態が形成しはじめる。しかし視線を返さなかった場合は、一方通行の無念な切望で終わるのである。「まなざし」と言えばサルトルの他者論の基本概念である。サルトルにおいて他者の「まなざし」は私を他へと開かれた存在性から、「モノ」のような存在性へと固定して自由を奪ってしまうという、どこか恐ろしい側面を持っていた。惹かれる相手に視線を送ることは何も相手の自由を奪おうとした行為ではない。それでもその「視線」はやはり相手を自分の欲望の対象としているかぎりで、相手を「モノ」にしてしまう。もちろん、人は机や携帯電話のような使う目的のはっきとした道具的な「もの」でないのは確かだ。我々は欲する他者をそのような道具的対象とは見ない。

    いや、本当にそうだろうか。

    そうはっきりと意識していなくとも、欲望の対象として相手を見ることは、相手を道具として扱う非人格的行為に等しいのではないか。しかし媚態の形成においては、この「視線」は一方的ではありえなかった。視線を送られた相手が視線を返すとき、そのとき媚態は形成されはじめる。この「視線を返す」という行為は、あたかも単純な対象化に抵抗するような、自由の剥奪を拒むような、そんな自己防衛的意味を持っているのではないかと思う。あるいは奪われた自由を奪い返すような、そんな抵抗のあらわれかもしれない。

    だから私は男と女のこの視線のやりとりに、人間の根本的な自由の争奪戦を見るのである。

    「遊び」を目的とした男女のやりとりの間で、まさかこんな壮絶な闘いが繰り広げられているとは誰もが疑うことであろう。しかし、男のまなざしを前にして恐怖と危機と憤りが入り交じったような、そんな複雑な感覚を覚えた女はいないだろうか。女は「モノ」じゃない。「視線」とは人間の最も単純なコミュニケーション手段でありながらも、時には武器にもなるということをどれほどの男が自覚しているだろうか。
      話が少しずれた。ともあれ「媚態」は視線を返すところからはじまる。いわば「やってやろう」という宣戦の受諾である。そして媚態が形成されると同時に、ある男とある女との間でその二人が結ばれる可能性が胚胎する。この可能性をはらんだ妙な緊張感は甘ったるいものではない。闘いの場としての、男女双方の緊張感なのである。ここで闘いは終結へと向かうのか、それともそのまま冷戦へと持ち込むのか。終戦は「付き合う」という双方の合意でもたらされる。なるほど、闘争心むき出しで、常にあの戦場特有の緊迫感を味わっていたいというそんな男(もちろん女も然り)はこの終結を「倦怠、絶望、嫌悪」と感じるかもしれない。それゆえ、あえて冷戦を選択するものもいるであろう。また、必ずしも終戦が闘いの終わりではない。それが新たな闘いの始まりを呼び起こすことにもなりうる。

    「浮気」という事態が「形」として結実するのは、「付き合う」ことで一つの闘いが終結し、その後に新たな闘いに火がついたときであろう。

      つまり、「媚態」という男女の緊張状態は「付き合う」ことで解消されてしまう。そんなことを言うと、生涯彼氏との熱々な関係を宣言する女友達らがいっせいに私に抗議してきそうである。しかし私はそれを否定しているのではない。生涯熱々でいればいい。私がここで「解消」と言っているのは、あの妙な緊張感としての「媚態」なのである。それは付き合うことで必然的に解消されてしまう。というのも、付き合うということは二人の間にあったあの妙な緊張感をはっきりとさせよう、すなわち「もう遊びはやめよう」と両者が合意することに他ならない。遊びをやめてしまうなんて、つまらない。

    遊びは「遊び」だから楽しいのである。

    だから遊びを求める者は、恋愛関係にある相手(付き合っている相手)では絶対に満足できない。「媚態」と「付き合う」という事態は相容れないのである。付き合っている相手の浮気に悩む人にとって、これほど絶望的な事実はないであろう。しかし別にあなたに問題があるのではない。問題があるとすれば、それは遊びを求めてやまない相手にあるのだが、しかし子供に遊ぶのをやめろということほど不健康なことがないように、遊びを好む相手に遊びをやめろと言うことほど不自然なことはない。
      さて、新たな闘いとしての「浮気」という事態は、九鬼の言う「いき」の二つ目の性格、すなわち「意気地」とつながるように思われる。意気地とは強がる心持ちであった。「冷戦」を自ら進んで選んだ「浮気をする人」は、その長引くかもしれない闘いに耐え忍ぶだけの「心の強さ」がなければならない。それが本当のところはどうなのかは、さしあたり問題ではない。見かけだけの強がりかもしれない。見せかけであろうがなかろうが、二元的可能性を可能性のうちにとどめさせておく、それを貫き通すほどの覚悟がなければならない。それほどの覚悟あって浮気をしている人は、果たしてどれほどいるだろうか。遊ぶならとことん最後まで「遊び」であることを貫け、と私はそう言いたいのかもしれない。
      さらにここでは「浮気相手」の覚悟もなければならない。なんの覚悟か。それはやはり二元的可能性をどこまでも二元的可能性のうちにとどめておく、そういった心持ちである。これもまた見かけだけの強がりであってもよい。ただそれをどこまでも貫かなければならない。特に女はそういった覚悟を持っていない場合が多いように思われる。どこかでうっすらと、「浮気」の二元性を抜け出して一緒になりたいと、そう願っているのではないか。だから女は厄介だ。やはり、遊ぶならとことん最後まで「遊び」を貫け、と私はここでもそう言いたいのだと思う。
      「いき」の三つ目の特徴として九鬼があげている「諦め」は、もしかしたら「浮気」にとって最大のポイントなのかもしれない。というのも、仏教的な「諦念」とはいかなる執着も捨てることを意味している。それは、いわば相手を自己のものにしたいという所有欲を捨てることである。媚態の二元的可能性がどこまでも可能性であり続けることを受け入れることで、すっきりとした心持ちで晴れて「遊び」を心置きなく楽しめるのである。九鬼はこのような心持ちに「無関心」という言葉をあてがっている。「媚態」とは相手に惹かれるからこそ形成されるものであるのに、それが「遊び」であるためにはどこまでも無関心を通さなければならない。これも難しいことであろう。先に言ったように、平行線がどこまでも距離を保ちながら絡み合うのである。その絡み合いはしかし、距離を前提としているということ、そのことを「浮気をする人」と「浮気相手」とが相互に自覚していなければならない。そういった逆説的なあり方を理解するためには仏教的・宗教的な境地にでも達していないかぎりは難しいような、そんな気さえする。果たしてそういった心持ちで浮気相手になったり、浮気をしている人がどれほどいるであろうか。

      こうして九鬼周造の「いき」の解釈学的分析を通して、「浮気」という現象を明らかにしようと努めてきたわけだが、気がつけばそれは「浮気」の現象理解ではなく、「浮気」が「浮気」として成り立つならばこうあるべきである、というような規範的な叙述になってしまった。「浮気とはこうあるべきである」とは、あたかも「浮気」が善であると肯定しているかのようだが、「浮気」がもし現象として成り立つのであれば、こういうものでなければならない、とそう言っているだけである。しかし私はこの結果は、それはそれで必然的な結果だったのであろうと思う。我々ははじめに和辻哲郎の考察をヒントに「浮気」とは空気のようにあたりに充満したものだということを見た。しかしそれは可能性としての「浮気」であった。問題としての「浮気」、ないしは形としての「浮気」はいくつかの前提のもとで形成された。一つは恋愛関係にある二人である。

    誰と付き合うわけでもなく、ただ「遊び」を好みとする人においては「浮気」は形としては現れない。したがって何の問題にもならない。

    「浮気」が問題となるのは、すでに付き合っている二人がいるからである。いわば付き合うことで「浮気」は可能性としての浮気から一挙に現実性を増すのである。そして第二の前提は、「媚態」であった。男と女が惹かれ合う、それは仕方ないことであろう。しかも「媚態」は付き合うことで解消されてしまうため、付き合っているものが「媚態」を求めたとき、すでに「浮気」を現実のものにしようとしているのである。

    「付き合う」ということと「遊ぶ」ということは矛盾ではない。

    付き合っていながらも遊ぶことは十二分に可能である。可能であるどころかそれが「浮気」の形をとって問題と化すのである。しかし付き合っている相手に遊びを求めることは、絶対的な矛盾と言うほかない。
      ここまでの考察はまだ「現象理解」の域にとどまっている。しかし問題はここからである。「浮気をする人」と「浮気相手」の双方には、「心の強さ」と「諦めの境地」がなければ成り立たない。闘いを挑んだ者も、挑戦を受けた者も、終わりなき闘いを引き受けたのである。軽い気持ちで引き受けて心折れたり、諦めつかなかったりするのは勝手だが、現実となった「浮気」とは本質的に終わりなき闘いなのである。問題は、終わりなき闘いを引き受ける人がどれほどいるだろうか、ということである。「心の強さ」も「諦めの境地」も、どちらも理想ないし非現実に過ぎないのではないかという疑問が残る。どちらか一方が折れた時点で、闘いは何らかのかたちで幕を閉じてしまうのである。そこで「浮気」の形は消えて再び単なる可能性へと戻っていく。そもそもなぜ、闘いの内部へと自ら足を踏み入れようと思うのだろうか。私はここで、「なぜ浮気するのか」という問いに対してこれまでの考察を手がかりに一つ答えを与えてみたいと思う。
      
      「遊び」をただ楽しみたいという人は、付き合わずにただ遊べばいい。しかし人は「形」あるものを求めてやまない。「媚態」にはさしあたって輪郭のはっきりとした「形」はない。「媚態」の内的可能性が現実のものとなったとき、それは「付き合う」という形をとる。しかしそこでは一つの形を得たと同時にそこにあったはずの美しさを失ったのである。「媚態」の美しさは、まさにその無形にあろう。逆説的にしか捉えることのできないその「媚態」は、無形であるがゆえに美しいのである。無形の美を、ありのままに楽しむことのできる人こそ、真の「遊び」を知っている「遊人」なのかもしれない。

    しかし大抵人は「形」を求める。だからこそ、苦しむ。

    付き合うことで得たはずの「形」に満足できずに、無形の美を再び追求するのである。「媚態」という美を。しかしすでに「付き合う」という形を得た者は、「浮気」という形でしか「媚態」の美しさを知ることができない。そうして二つの形を得た者は、果たしてしあわせなのだろうか。それだけの「心の強さ」と「諦めの境地」があれば、しあわせなのかもしれない。むしろそれらがなければ、形をとった「浮気」はただの虚しい、なんの楽しみもない闘争になってしまうであろう。だから「浮気」を本当に楽しめる人は、ある意味現実性を逸脱した偉人なのかもしれない。ほとんどの人は二つの形に挟まれて結局は苦しむことになる。哀れにも自分にはそれだけの「心の強さ」と「諦めの境地」がなかったことを知り、もはや媚態を諦めて一つの「形」に戻っていくことであろう。そこで逆に「媚態」の無形の美に生きようとする者は、無形の美の美しさが真に理解できる広い意味での芸術家くらいであろう。


      
      形なきものの美を謳歌するか、それともどこまでも形を求め続けるか。
      人は多くの場合は後者を選択する。だから苦しむ。



      「浮気」とは空気のように我々を囲むもので、他者の出現によって時に可能性が結実して形としての浮気となる。しかし「浮気」の形は「付き合う」という形の相対でしかない。あたかも黒い四角い紙から丸い形を切り取って、そこに出来た穴によって黒いふちが出来るように。一つの形が新たな形を生むように。男と女は白と黒のように対照的だ。コントラストはコントラストだから美しい。あえてそれを一つの色に染める必要はない。

      だけど形を求めてやまないのが人間である。だから苦しむ。



    (完)
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