我々の「日本人としての自覚」は、日常生活の一つ一つの行為をそれとして自覚したときに形作られるんだと思う。
日常の中の行為はふつうは取り立てて自覚なんかはしないけど、その「日常の行為」に矛盾を感じたとき逆に自覚するopportunityとなる。
帰国子女であるという立場はそういった矛盾を人一倍感じる。
自己のことを内省して自覚できる年齢になったとき、アメリカにいた私は「日本人」という目で見られていることに気付いた。否、正確には「アジア人」という目で。
人の外見は自己のアイデンティティー形成に関わる第一条件のようなものだと思う。
そういった意味でそれは逃れることのできない制約。
だけど我々は行為的自己である。
私が「アメリカ人」のようにふるまったとき私はむしろ「アメリカ人」として見られる。
私がユニフォーム着てサッカーをしているとき、私は「サッカープレーヤー」として見られる。
人のアイデンティティーはそうやって自分や他者からステータスをあてがわれてはそれにそぐうように、またはそれを否定するかのようにふるまうことで、形作られてはまた新たに形作る。
帰国子女として帰国した私はどんなに「日本人」としてふるまおうと私の行為はどこか「外国人」のようだった。
自分のふるまいが文化的、社会的な意味を持っているということをそこで改めて気付かされた。
「私」という確固たるものを探そうとして苦戦した日々もあったけど、「私」とは粘土のように、形があるけれど決まった一つの形がない、流動的で不確定で形成的なものなんだと今は思う。
矛盾は解消するものではなくむしろ自覚するものだと。
矛盾があるところにこそ自覚あり、と。
帰国子女のみならず人は皆、多かれ少なかれ自分のふるまいに矛盾を感じながら生きている。
そういった矛盾を
見過ごすのでもなく
解消するのでもなく
矛盾として自覚して生きる。
何か一つのアイデンティティーにあてはまるように生きるのは、らくなようで本当は一番むずかしいと思う。
だけど私はアイデンティティーなくして生きるのではなく、いろんな形をとりうる柔軟だけどねばりのある、 粘土のように生きたいと思う。
(過去のmixiでの日記より)