hence, thus, therefore

  • 「浮気」についての哲学的考察ー①

    —浮気している人、されている人、浮気相手になっている人へ。


      どこからが浮気か。浮気は許せるか。なぜ浮気するのか。
      浮気についての哲学的問いは、これらの問いを直接的な問いとはしない。むしろ、他の哲学的問いと同じように、事柄の根源に迫ろうとする問いが哲学的問いであり、ここではそのような問いを引き受けようと思う。

      「浮気とは、なにか。」

    しかも浮気を外延的に定義しようとすることをここでは目的としない。つまり「○○は浮気であるが、○○は浮気でない」というように浮気という事柄の事例をあげることでその事柄の意味範囲を特定しようとする方法である。今仮にそれを目的とすればその問いは「どこからが浮気か」という問いとほぼ同義となってしまう。また、ここでは浮気を内包的に定義しようともさしあたって思わない。「浮気とは○○である」と、浮気という事態にあてはまる性質を列挙していく手法がそれにあたるが、それは一見魅力的な方法と思われるが、だが浮気の一般的性質をあげることは別段「哲学的」とも言えない。
     ここでは「浮気」という事態が現に「ある」ということを認めた上で、その現象の有り様を単なる概念の羅列という方法によってではなく、できるだけ事態に忠実に記述的に行ってみたい。つまり、浮気の現象にあてはまる概念系列を並べてあたかもそれで浮気現象が分かった気になるのではなく、事態を既成の枠の中で思考せずにできるだけ自由に考えてみたい。
      といっても文学的記述とは違う。私はそんな技法を持ち合わせていない。もちろん絵の具でキャンバスに写実するのでもない。

      概念分析的でもなく、文学的記述的でもない。説明するのでも、写像的に描くのでもない。ではなんなのか。

    一応目指すものは「概念に頼らずして概念を用いた記述」とでも言えよう。

    それは言葉を用いて絵を描くような試みかもしれない。読んでいて、ふわ〜っと「浮気」という事態が開けてくるような、そんな感覚をしてもらうのがとりあえずの狙いである。その意味では文学作品に似たところはあるが、しかしあくまで記述的にして分析的であるところが哲学的と言えるのかもしれない。
      よりどころは最近少しばかりかじった和辻哲郎と九鬼周造の哲学。本当にかじった程度なのでその深みまで理解しているとは到底言えないが、ヒントをもらうという程度で利用させていただく。本当はまだ自分のものにしていない思想を一面的に拾って適用することにはかなりの抵抗があるのだが、でも発展途上の思索においてはそういう思い切ったことをしないとかえって何もおもしろいものは生まれないとも思っている。それに深みまで理解することを待っていたらいつになるか分からない。

      まず、和辻さんから。
      和辻は「寒い」という事柄について現象学的に記述することを試みている。私が寒いと感じたとき、「寒さ」が外から私に向かってくると思うのはある意味自然である。冬場において一歩家の外に出たときに突然「寒さ」が私を襲ってくる。外から襲いかかってくる。そう思うのがある意味一般的ではあるが、しかし和辻は言う。私が寒いと感じたとき、そのとき私はすでに「寒さ」の中にいる。「我々自身が寒さにかかわるということは、我々自身が寒さの中へ出ているということにほかならぬのである。」ここで和辻が注目するのはハイデガーの自己開示性というもの。ハイデガーはexistence(存在)の語源であるラテン語のexsistereを「外に(ex-)出ていること(sistere)」と解釈した。つまり我々の存在は外へと開かれたものだ、と。我々が自分の存在を何らかのかたちで知ったとき、そのとき我々はすでに世界の内にいるのだ。

    世界-内-存在(being-in-the-world)なのだ。私はこの思想は二十世紀最大の功績なのではないかと思う。

    我々が世界の中、世界の内に存在しているということは一見自明のように思えて、しかしまったく自明ではない。少なくとも自明ではなかった。デカルト以来の西洋近代的思考は「我」と「世界」を対峙させる。我の外に世界がそびえ立っている。それがデカルト的思考だ。それによって世界、そして自然は人間が支配しうるものとなった。そういった思考は何も西洋に限ったことではない。東洋にも、そして日本にもいつの間にか浸透していた。近代以来の思考枠となった。だからこそハイデガーの世界内存在という思想はかなり画期的であったし、今なお画期的であり続けるのはそういった十七世紀以来の思考枠を破る可能性を持つものであるからであろう。我々は世界に対しているのではなく、世界の中にいるんだ。こんな自明のことを取り立てて強調しなければいけないのが現代である。それはともかく、和辻の話に戻すと、我々は「寒さ」の中にいる。「我々は寒さを感ずることにおいて寒気を見出すのである。」だから寒気がどこか我々の外にあって我々を襲ってくるのではない。「寒い」という現象と「寒気」ないし「寒さ」という事態を区別して前者は主観的な感覚、後者は客観的な「もの」という捉え方は当の「寒い」という事態を抽象して出来上がった構図にすぎない。外気中の分子が我々の肌に触れて体温と外の気温との差で身体に鳥肌が立って、筋肉が収縮して脳がそれを感知して引き起こされる「感覚」が「寒気」なのではない。そういった科学的説明は物事を一面的に捉えているに過ぎない。「寒気」を感じると言っても、それは文法的に対象化・目的化させているだけであって実際にそういった「もの」が我々と離れて客観的にあるのではない。
      こういった和辻の現象学的記述を、私はそのまま「浮気」という事態にも適用できるのではないかと思う。「寒気」と「浮気」の「〜気」という表面上の類似による安易な類推と思われるかもしれないが、しかし同じように浮気という事態を捉えてみることもおもしろいと思う。もちろん一筋縄に行かないところもある。「寒気」は感じるものだが、「浮気」を感じるとは言わない。だから我々が「浮気」を感じたときすでに「浮気」の中にいる、と言ってもよく分からない。だが上述の現象学的記述から、「浮気とはなにか」という問いで我々は何を問うていて何を問うていないのかということをまずもって伺える。「男はなぜ浮気するのか」という問いに対して、男は本能的にたくさんの子孫を残したいと思っているから、ということをよく耳にする。そういった因果論的説明、進化論的説明は「男は浮気する動物なんだ(だから仕方がない)」という正当化作用が少なからずある。しかしもちろん男でも浮気をしない人はいるし、浮気せずにはいられない女だっている。そういう人はこういった説明では「例外」として排除されていく。もう少し洗練された説明となると、たとえば浮気という現象は、一種の拘束性からの解放を望む人間の自由の表現である、といったものがあげられよう。これは一見洗練されたものに見えて、しかしやはり前述の因果論的説明とほぼ変わらない。こういった説明は浮気という事態の裏に潜む「なにか」を求め、そこに一つの答えを与えることで事態に根拠を与えている。しかし「浮気とはなにか」という問いは必ずしも根拠への問いではない。根拠への問いは物事の根源的理由を求めてやまない人間の必然でもあるが、しかし「浮気とはなにか」で問うている問題は現象そのものに他ならない。

    無根拠かもしれないこの現象を、現象しているただ中で捉えてみようという試みが今我々の課題なのである。
     
      さてここで和辻が着目するもう一つのポイントがここで重要となる。
      和辻は、「私」が寒さを感じるというところを「我々」が寒さを感じるといっても差し支えないという。つまりそもそも私が寒さを感じたときにすでに寒さの中にいるのであれば、「寒さ」といういわば場所のようなところに、私であれ、あなたであれ、すでに開かれていることになる。我が先か、場所が先かと言ったところであろう。デカルト的に言えばもちろん「我」が先になるが、現象学的(つまり事態に沿って忠実)に言うと、場所が先に開かれている。

    目を開いたとき、まず言えるのはそこであなたが見ているということではなく、物事があなたに対して開かれていることであろう。

    そこであなたが見ている、ということは誰かが指摘してくれないと本来はむしろ気づかない。和辻はこの開示された場所性を「間柄」と呼ぶ。親と子の間柄。人と人との関係性。それはすでに独立に存在している個人がいて、個人と個人が出会うことで築かれる関係性を言っているのではない。間柄を問うとき、個を直接問題としているのではない。関係性を問題としているのである。関係性と聞いてすぐに「個」を思い浮かべるのは近現代人の悪い癖であろう。関係性、間柄は「われわれ」を問題としている。話を戻すと、「寒気」を感じているのは「私」である以前に「われわれ」である。我々は「寒気」を共同に感じている。つまり、「寒いねー」「うん、寒いねー」という共有できる基盤、つまり「間柄」がすでに成立していなければ、「寒い」ということは、ない。「いや、寒くないよー、あったかいよー」という事態だって「寒さ」という基盤がそもそもなければ成立しない。
      この「間柄」という基盤がいかにして「浮気」の現象理解に結びつくか。まず「浮気」という事態を了解する基盤が出来上がっていなければ、そもそも「どこからが浮気なのか」「浮気は許せるのか」「なぜ浮気するのか」という問いも成立しないということが分かる。

    いわば、「浮気」はわれわれのまわりに充満しているのだ。

    それがどういう事態なのかということを我々は知らぬ間に共有しているのだ。だから我々は「浮気」の中にいる、と言えるのである。ただ、寒気の中にいても寒いとまったく感じていない人にとって「寒気」の中にいるということはいまだ自覚せぬ可能性にすぎないように、浮気もいわば「われわれ」の可能性の一つであろう。寒気とか眠気とかは不意に突如襲ってくるものだが、ともすれば浮気も突如襲ってくる潜んだ可能性なのかもしれない。
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