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  • 梅雨の瞬き

     梅雨の晴れ間はむしむしと不快な暑さを連れてくる。体に纏わり付いてくる湿気に眉を寄せながら、フレンは外を見た。緑が茂った花壇の向こうに見えるグラウンドでは、空よりも深い色のジャージが集まって、気だるそうに柔軟をしていた。
     視界の隅にひらりと翻る白は、先程干したシーツだ。その横には敷布団も干してあり、気持ち良くからりと干したそれらを求めてくる生徒と、明日から少しの間は攻防戦が始まるのかと少しばかり溜息がこぼれる。ベッドは急病人の為であって、決して授業をサボタージュするためのものではないのだ。
     休み時間は生徒でごった返すためなんだかんだそれなりに忙しいが、授業開始のチャイムが鳴ると落ち着き一息つける。どこかの教室から聞こえてくる教師の声と、梢を揺らす風の音が耳に心地良い。手元に置いた事務作業用の資料が、グレーの事務机の上でかさりと音を立てた。
     ひとつ息を吸い込んで、やりかけの作業に戻ろうと机に視線を落とした時、扉の向こうから聞こえる足音が耳に入った。上靴が廊下を踏み締める軽快な音が、保健室の前で止まる。フレンが視線を上に戻すのと、入り口の扉が開くのは同時だった。
    「失礼シマース」
     間延びした声と、肩の上でさらりと揺れる髪。着崩したカッターシャツにはネクタイが無く、いつも担任に注意されているのを知っている。常連という訳ではないが、彼もこの保健室ではよく見る方だ。
    「はよ、フレン先生」
    「ローウェル、今は授業中のはずだけど」
    「まあ、そうだな」
    「サボりに来たのかい?」
    「満面の笑みだな、怖えーよ…違うって」
     肩を竦めた彼は、こちらへ近付いてきた。それから左手を差し出す。その手を視線で辿ると、白い指の先、斜めに入った赤い線から血が滲み出していた。
    「どうしたんだ、これ」
    「紙で切った」
    「はあ……ちょっと待っててくれ」
    「ん」
     見たところ血も止まりかかっているし大した傷ではないが、このままでは授業も受け難いだろう。椅子から立ち上がり、棚から絆創膏を取り出す。外装をぺりぺりと剥がし、傷口に当て、指を締め過ぎないように気をつけながらぐるりと巻いてやると、はい終わり、と手を離した。
    「サンキュ」
    「どういたしまして。授業は抜けて大丈夫だったのかい?」
    「んー?まあ、別にどうでもいい話だったし」
    「何の授業?」
    「……進路学習」
    「大事な話じゃないか、君のことはよく担任の先生から聞いてるよ」
    「うえ、ここも根回し済みかよ」
     全く逃げ場が無いと顔を顰める仕草に、頭を軽く叩く。小さく上がる悲鳴は無視をして、暗い色の瞳を覗き込んだ。
    「君は今一番大事な時期だ、君自身が思っているよりもずっとね」
    「……知ってるよ」
    「なら真面目に考えるべきだ」
    「冷てえの、先生に会いに来たんだぜ?」
    「冗談はいいから、早く戻りなさい」
    「へいへい」
     失礼シマシタ、またな先生、軽やかな声に返事を返すとがらがらと扉が閉まる。足音が遠くなるのを聞きながら、フレンはやれやれと椅子に座り直した。
     静かになった室内に、僅かに湿った空気が流れ込んでくる。授業が終わるまで後30分ほど。また忙しくなる前に少しでも片付けてしまおうと、机の上の書類に手を伸ばした。







     視界の隅で、カーテンがはためく。教壇から聞こえてくる声を膜の内側から聞きながら、ユーリは頬杖をついた。
     梅雨の晴れ間の、湿気を含んだ空気が教室に沈殿している。息苦しささえ感じるようになって、そっと視線を下に落とした。使い古された机の木目の上に、読む気も起きない文字で埋め尽くされたプリントが乱雑に散らばっている。卒業生進路、就職先、進学先、合格実績。その上に乗る左手の薬指にくるりと巻かれた肌色の絆創膏を、ユーリはじっと見つめた。
     長い指が差し出した手を取り、滑らかな手付きで動くのを見ていた。慣れた様に手際よく巻かれる絆創膏と、自分よりもいくらか高い体温に体の内側が波立ったこと。サンキュ、と言った声は震えては無かっただろうか。一分にも満たない時間の応急処置はまるで、いつかテレビで見た指輪交換のようだった。こんな事を考える自分も、それだけで心拍数が上がる心臓も、ありえない。女々しい、気持ち悪い、と思うのに、どこかで安心している自分がいる。諦める気は微塵もない。けれど、一番怖いのは、諦める覚悟が出来たときだった。あと一年と半年。タイムリミットは緩やかに足を掴む。まだ、大丈夫だ。
     ユーリは親指の爪で、塞がり掛けている傷口を絆創膏の上からぐりぐりと抉る。ぴり、と走った鋭い痛みと、そのうち溢れた赤が、滲んで不快な染みになった。



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