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  • 灰かぶり姫と猫かぶり王子(仮題)

     布を擦る手を止めて、ユーリはひとつ伸びをした。青空の下、水の流れる音がすぐ傍らから聞こえる。天に伸ばした手のひらは氷のように冷たく、無くなってしまった感覚を取り戻すように胸元に下ろした両手を擦り合わせた。山のようにあった洗濯物も、もう少しで全て洗い終える。
     空気に冷たいものが混じるようになると、下町の冬はすぐに来る。鬱陶しい雲が空を覆う日が多くなる前の、柔らかな日差しはありがたい。今のうちに冬支度を済ませなければと、人々は毎日慌しく仕事をこなしていた。
     長い時間同じ動作を繰り返し、固まってしまった背中と腰を解す為に立ち上がって軽く柔軟をする。はあ、と短く吐いた息のあと、周りの景色をぐるりと見回してみると、寄り添うように連なるレンガの屋根の向こうにそびえ立つ大きな城が見えた。
     この国の政治の中心地であるその城では、連日華やかな舞踏会とやらが開かれている。貴族やその血筋の者たちが集まり、眩い光の中色とりどりの服に身を包みダンスや食事を楽しむのだ。そう、表向きは。
     この舞踏会を主催している人物は、この国の王子である。21歳という若さでありながら積極的に国事に関わり、既に国の中枢の一端を担っている。聞くところによると、城お抱えの騎士団を率いるほど武道にも長けているという。容姿は金髪蒼眼の端整な顔立ちで、どこにも非の打ち所が無い。ただひとつ、彼が独身だということを除いては。
     そう、王子は独身なのだ。そして、その舞踏会を主催しているのは王子なのだ。そこから導き出される答え。毎夜城で開かれる、華やかなパーティー。ドレスに身を包んだ女性たち。その真相は、「王子の婚活パーティー」に他ならない。
     そこまで考えて、昨夜腹に巻いたコルセットの苦しさを思い出したユーリはどっと疲れた気分になった。なぜ昨夜、ユーリはコルセットを巻かなければならなかったのか。なぜ城の情報など微塵も入ってこない下町の住人であるユーリが、城の舞踏会の事細かな内部事情まで知っているのか。詳しいことは割愛するが、ユーリもその舞踏会に参加したからだ。しかも女装で。出来れば一生思い出したくない記憶である。
     昨夜の様々な記憶が脳裏に過ぎるのを払い落として、ユーリは洗濯物に向き直った。とにかくこの山を片付けてしまわなければ、義姉たちに何を言われるのか分かったものではない。
     洗濯物の続きをしようとその場にしゃがんだ時、何人かの足音が聞こえてきた。作りの悪いレンガの道を、カツカツと音を鳴らしながら規則正しく歩く音。下町の住人ではない。
     近付いてくる足音に、視線を上げたユーリの目に飛び込んできたのは太陽の光のような淡いハニーブロンドだった。それから零れ落ちそうな青色の瞳。その瞳が、こちらに向けられる。一瞬の交わりに、昨晩の記憶が蘇った。
     吸い込まれそうな青に動けなくなったあの瞬間。12時の鐘が鳴り、重たい布を半ば引き摺るように慌てて駆け下りた階段。片方だけ落とした靴。
    「ユーリ・ローウェルさんですね?」
    「ああ、そうだけど」
     何?と返したユーリに、従者を後ろへ下がらせて近付いてきた男は口を開いた。
    「私はこの国の王子で、フレン・シーフォと申します」
     流麗な動作で礼をしたその男を、ユーリは知っていた。声こそまともに聞いたことはなかったが、その姿は昨晩嫌というほど見ていたのだ。その姿に違わず穏やかな声で、この国の王子、フレンは何故下町に来たのか説明を始める。
     昨日の舞踏会で恋心を抱いた人がいたこと。しかし結局話しかけられずに、その人を見失ってしまったこと。その人が階段に靴を落としていったこと。一晩たっても諦めきれず、この靴を手掛かりにその人を探していること。
     話を聞いているうちに、雲行きが怪しくなっていることにユーリは気が付いた。フレンの話す内容に、身に覚えがありすぎる。顔が引き攣っていくユーリとは逆に、フレンはにっこりと微笑んだ。そして手に持っていた包みを開く。そこにあったのは、見間違えるはずも無い、ユーリが落とした硝子の靴だった。
    「ユーリさん、この硝子の靴を履いていただけませんか?」
    「ちょ、おい、待て、オレは男」
    「知ってるよ」
    「は?」
     慌てたユーリが最後まで言おうとした言葉は、フレンに遮られた。それから潜めた声で、さらりと言われた言葉に間抜けな声が出る。今、こいつは何と言った?
    「男なのは知ってる。昨日の舞踏会、見ただろう?毎晩毎晩あんなのはもう御免なんだ、君、僕に協力してくれないか」
     後ろに控える従者に聞こえないようにこそこそと話される内容は、貴族たちの間で噂される王子の印象とはかけ離れたものだ。こんなことがあっていいのか?にこりと笑うその笑顔は噂通りの王子スマイルだが、その穏やかな表情は言外に「逃げられないよ」と言っている。
    「協力してくれ、とは言ったけど、君に一目惚れしたのは本当だよ」
     じゃなきゃ、わざわざ君が靴を落とすように階段にヤニなんて塗らないからね、なんて爆弾発言まで飛び出した。ヤバイ、何だこいつ。全然理想の王子様じゃねえ。猫かぶってんじゃねえか。
     呆気に取られたユーリを見て、フレンはやはり笑っている。それからやたら元気のいい声で、歌うように言葉を紡いだ。
    「さあ、この靴をお履きください、マイシンデレラ」
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