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  • 電子書籍と出版の未来 by 喜多野土竜 @mogura2001

    Twitter  ではときどき瞠目すべき論考と出会うことがある。
    喜多野土竜  @mogura2001  さんが、60連投で「電子書籍と出版の未来」について語っているのに引きこまれた。
    お気に入りにチェックするだけではもったいないので、このブロブで備忘録に残すことにした。

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    【電子書籍と出版の未来】
    出版は不況に強いと言われる。戦前、不況でも羽振りが良く、そういうイメージが出来たらしい。実際、バブルが崩壊して以降も出版社の業績は上がり続け、1995年ごろまで伸び続けた。しかし、以降は右肩下がり。このため、出版社は出版点数を増やす事で穴埋めしようとした。

    下手な鉄砲も数打ちゃ当たるの時代から、販売部から売れる根拠・確実に売れるコンテンツを求められ、実績のあるベテラン作家の文庫本や再編集本が大量に投入され、コンビニには廉価本が溢れた(これはBOOKOFF対策もある)。しかしこれは一種の蛸の足食い状態。結果、新人が割を食う事に。

    最近はそうでもないが、平成も一桁代の頃は出版社には「一度上げた原稿料は下げられない」という不文律があり、漫画が超優良の成長産業だった頃にガンガン原稿料が上がったベテランは、原稿料を下げられないので切るしかないという、変な状況があった。もっとも雑誌の看板作家はそうはいかない。

    結果、看板作家はゴネれば原稿料が上がり、中堅作家が切られ、新人の原稿料が昔ほど上がらないという状況が生まれた。ただ、あるベテラン作家は同世代の作家の中ではかなり知名度があるのに、原稿料が相場の3分の1。調子に乗って原稿料を上げて切られた仲間を見てきたから、上げないとのこと。

    そういう自己防衛をする作家は一握り。文庫本や廉価本の収入も併せて、業界内の老若の格差が広がった。しかし、どんな業界もそうだが、新しい血が入って来ない世界は淀み、廃れる。才能を発掘できず、安かろう悪かろうとわかっていても、比較的原稿料が安い中堅作家に頼った本作りでは限界。

    元々、漫画というのは雑誌で売って利益を出すものであり、原稿料は安いものだった。それは『ゲゲゲの女房』で描かれた貸本時代から売り切り雑誌への過渡期の時代もそう。漫画は読み捨てるものであり、原稿の扱いも書き捨てる物だった。出版社見学にきた子供に、生原稿をあげるという行為も普通。

    ところが元小学館の社員が独立、雑誌に連載された作品を単行本としてまとめて売りたいと申し出て、そんな一度読んだ物が売れるはずがないと小学館も了承。こうして、秋田書店からサンデーコミックスが発売。『どろろ』や『鉄人28号』が同レーベルなのはこのため。ところが、これがバカ売れ。

    結果、他社も独自のレーベルを立ち上げ、単行本販売に力を入れる。そして、漫画の収益構造が変わってしまった。単行本で莫大な利益が出るため、雑誌は赤字でもいいという構造になり、漫画家の原稿料もあがる。こうして、90%以上売れないと黒字が出ない・完売しても黒字が出ない雑誌が増えた。

    この構造の変化は、音楽業界と一部似る。本来はライブの演奏で日銭を稼ぐのが芸人の在り方だったのに、ラジオ(後にはテレビも)で楽曲を流してもらって、レコードの売り上げがメインとなるという状態。それでもプレスリーはライブを大事にしていたが、ビートルズのあたりで、大きく転換する。

    ビートルズに限らないが、時代の代表として生声とレコードの差を指摘された。またコンサートもファンの歓声で歌がほとんど聞こえないという状況に辟易し、アルバム制作に時間をかけ、ツアーは何年もストップという状況が、多くのアーティストで見られるようになる。良い悪いではなくそう変化。

    ビートルズは特殊な事情があったが、後続がスタイルを真似する。漫画家も「単行本で修正すればいいや」という慢心(より完成度を高めようと手を加えるのとは別)が生まれて、ライブの場の雑誌が荒れても、気にしなくなった。でも、そういう幸せな時代も、レコードや単行本が売れなくなると……。

    音楽業界の場合は、何百年もある出版業界と違って、狭い意味では新興勢力。そういう意味では、わりと出版業界の先駆となっている部分がある。CDの登場によるデジタル化とか、一部の好事家が音質の違いを言い立ててレコードを擁護しても、世はCDになったように、出版もDTPが主流に。

    また、iTunesMusicStoreの登場で、ダウンロード販売の方への移行もわりとスムーズ。細かい部分では異論もあろうが、少なくともレコードが売れない時代は出版に先んじてた訳で、アメリカと日本の流通形態の違いもあって、楽曲のダウンロード販売は拡大の一途。でもここで問題が。

    映画評論家の町山智浩さんがアメリカの音楽事情を『ストリーム』などで語っていたが、アメリカでも若手はヒットが出てもなかなか儲からない構造が出始めていると。音楽レーベルはそれなりに設けても、創作者や表現者には還元されない構造。これは日本の漫画業界も同じ(一部の人気雑誌以外)。

    アメリカの場合、例えばプリンスはCDはもう無料でバラマキ、代わりにライブで収益を上げるという構造を選択した。でもこれって、本来の芸能で身を立てる物の正道でもある。世界一アルバム(スリラー)を売ったマイケル・ジャクソンが、ツアー再開の矢先に急死したのは、時代の変化の暗示か?

    例えば、落語。若い人にはピンと来ないかもしれないが、かつては娯楽の王者だった。江戸には数百件の寄席があり、落語家はそこを梯子して演じていたが、今は新宿末広亭・池袋演芸場・上野鈴本などしかなく、広小路亭や両国寄席など定席でないものも含めても少ない。

    定席に出られるのは基本、落語協会と落語芸術協会に所属する落語家だけ。寄席の出演料は安く、ハッキリ言って儲からない。落語家としては独演会や、司会などの営業の方が儲かる。だが、新人が育つ場としての寄席は必要なので、寄席の経営者(席亭)は協会の幹部と協議し、人気落語家を入れる。

    昔、落語協会が分裂する騒動があったが、分裂した側の副会長であった古今亭志ん朝師は、新協会が寄席から閉めだされたため、それでは弟子を育てられないと、落語協会側に頭を下げて復帰。三遊亭圓生の一門は意地を通し、独演会や営業の方に力をいれるが圓生が急死。他の弟子は協会に復帰した。

    だが、圓生の一番弟子だった圓楽は復帰を拒み、円楽党として活動を続ける。若手育成の場として、『若竹』という寄席を経営するが、後に閉鎖の憂き目に。だが、後に協会分裂を画策した張本人とされる立川談志師は協会から脱退、立川流を設立する。立川流は独自の寄席経営には乗り出さなかった。

    これは、談志師がかつて寄席経営の経験があり、旧来の寄席による新人育成システムの限界を感じていたためか。立川流はこの時、立川志の輔という稀有な才能を得て、寄席システムに頼らなくても食っていける落語家のシステムを、模索し成功する。志の輔を手本に、談春・志らく・談笑の俊英が出る。

    寄席若竹を閉鎖した円楽党だが、笑点という場を確保していたため、両国寄せを中心とした活動でも安定して若手を育成している(自分の好みではないが)。立川流も、日暮里と上野広小路で定期的に一門会を開いているが、基本的によせえの教習を持つ古参の弟子と若手が中心。

    さて、長々と落語の噺をしたのは、漫画業界の構造とやや似ているため。漫画家も、世に出るためには雑誌などに作品が掲載されないと難しかった。出版社などを通して全国流通させないとダメなわけで、無名の新人作家は人気作家が多数執筆し、それなりの部数がある雑誌だからこそ注目してもらえる。

    人気落語家が出演するからこそ客は寄席に足を運び、そこで意外と自分の肌に合う若手や、将来性のある前座を見つけ、彼らの贔屓になり独演会などにも足を運ぶ。寄席が雑誌なら、単行本が独演会(同人誌は営業か?)。ところが、中堅出版社はもちろん、大手出版社でもこの構造が壊れつつある。

    単行本の収益を重視しすぎたあまり、一話ごとの読み応えは低く、単行本でまとめて読んでようやく面白い作品が量産され、一話完結型の難しい作品作りが敬遠された(書き手としても毎週引きを作る作品作りのほうが、一話で起承転結付けてアイデアも必要な短編やレギュラーストーリーは大変)。

    現在のマンガ業界では、確実に数が見込めるオタク向けの雑誌作りが多く、けっきょく単行本型のビジネスモデルに依存している。だが本来、来週・来月もその本を買おうと思わせる作品を大切にすべきなのだが、雑誌は赤字で当然というスタイルに慣れてしまい、単行本重視の本作をする。

    これは、編集の現場を知らない営業販売の圧力もある。「単行本は売れなくても、雑誌に読者をつなぎとめる力がある作家」というのは、数値化しづらい。販売部にとっては、発行部数10倍の作家は、10倍エライとなる。だが、新人育成というのは、そんな単純なものとは、自分は思わない。

    例えば、ある出版社が利益率の悪い少女誌を廃刊にした。同じ漫画家が描いても、単行本の売上が5倍から10倍も違えば、そう判断しても無理は無い。だが、単行本は買えなくても雑誌は買える小学生読者が、中学高校になり、その出版社のもうちょっと上の層向けの女性誌を買い、単行本を買う。

    彼女らがもっと成長すればレディースに移行するだろう。これは男性読者の、幼年誌→少年誌→ヤング誌→青年誌 という生態系も同じ。赤字部門を切り捨てたと喜んでいても、長い目で見ればボディーブローのように出版社に効いてきて、読者離れを起こしてしまう。寄席のシステムは、そこを避ける。

    寄席の場合は、演者の出演料を抑えることで成立する。演者の側も、かつて自分が育ててもらった場に対する恩返しとか、新規の顧客獲得という意味合いもあり、そこは割り切る。自分が主任で、客を呼ぶという自負もある。だが、漫画の場合は寄席と独演会の出演料が一緒になってしまっている悲劇が。

    大学の後輩の祖父は、高名な芸人だったが、地方営業なら興行主お任せなら1回数十万のギャラを得ていたとか。それでも新宿コマ劇場の演歌歌手の舞台公演では、1か月拘束されて芝居に歌にと大変でも、地方営業1回のギャラよりも安くても受けたと。落語家以外の芸人の、寄席的意味があるから。

    ヤングサンデー休刊決定時、ゆうきまさみ先生が、作品発表の場がなくなるぐらいならば、作家側にちゃんと交渉すれば原稿料引き下げに多くが応じたはず……という意味のことを語っていらしたが、ここら辺は先に書いた作家の原稿料は下げられないという不文律の影響。大手では、メンツもある。

    ガロのように、原稿料はなくても作品発表の場と割りきって、執筆する場もあったが、特殊な例外。落語協会の場合は団体として会員の利益を守る場であり、それが寄席と関係を構築しているが、漫画家は基本一匹狼。雑誌のために安い原稿料に甘んじる自己犠牲を求めるのは、ムリもある。

    ゆうき先生の発現に、自分と同じ出版社勤務経験のあるフリー編集が、「まず圧縮すべきは明日をもしれぬ原稿料じゃなく、高額な社員の給料」とつぶやいたが。ヤンサンは潰れ、一部の人気作家は移籍し、一部の作家は仕事を失い、社員は誰も馘首されることなく、配置転換。それが現実。

    歴史あるラジオ番組が打ち切られたとき伊集院光さんが、人気があるのにスポンサーが付かないので番組打ち切りなら、スポンサーを取ってこれない営業の人間はクビにならないのかと皮肉を言っていた。まさにそれと同じ状況。明日にも才能がなくなるかもしれない漫画家に、自己犠牲は求められない。

    出版社の弁護もしておくと、出版事業というのはリスクが高い。460円の新書1万部を10点出版しても、莫大な金がかかる。その売上が入金されるのは数カ月先なので、本を作って売って回していくには、基礎体力とリスク回避のための慎重策は、批判できない。会社が潰れれば路頭に迷うのは同じ。

    文句があるなら、作家の側は自分でリスクを負って、自分で本を出版しろという事になる。だが、作品を書く能力と出版社を経営する能力は、また別。小説家では菊池寛の文芸春秋社、漫画家ではさいとう・たかを先生のリイド社ぐらいが、作家が起こした成功例の数少ない例だろうか。

    実際、リイド社は『ゴルゴ13』は単行本にしても売れないと小学館側に判断されたため、さいとう先生が自分でリスクを負って作った会社。作品自体も早くから分業制を導入したように、さいとう先生はマネージメント能力に長けていたのだろう。出版社を作って失敗した漫画家は、けっこう多い。

    電子書籍の登場で、作家の側にも動きが。代表例が、佐藤秀峰先生の試み。ただ、出版社の側には怨嗟の声もある。寄席で育ててもらった落語家が、人気が出たら独演会と営業ばかりやるようなものという批判も。ただ、これは佐藤先生が新人育成にも乗り出したことで、的外れになったけれど。

    藤秀峰先生やうめ先生の電子書籍における試みは高く評価するが、一抹の不安もある。それは、やはり編集者的な視点と作家の視点は違う。作家は作品作りのスペシャリストであるが、そのスペシャルな部分は偏る。得意ジャンルなら的確なアドバイスもできるだろうが、畑違いには難しい場面も。

    作家個人が電子書籍で自分の食い扶持を創出することはできても、漫画文化の継続的な維持発展のためには、新人発掘と育成はできない。佐藤先生のような場を提供しても、セルフマネージメントができて才能がある作家以外は、自分がどこに躓いているかわからず、消えてしまう。立川流の問題に似る。

    立川流では志の輔・談春・志らく・談笑と、本格派あり爆笑派ありと人材が育っているが、それ以上に消えていった人間は多い。才能とそれを活かす方法をしる人間はポーンと出てくるが、そうでない人間は厳しい。才能ある一握りで充分じゃないかと意見もあるが、それはちがうと思う。

    落語では「呼び屋」と「聞かせ屋」という言い方があるが、一般の客を寄せに呼び込む人気者と、そうやって来た客に、落語って面白いだけじゃなくて悲しさとかペーソスとか人間の薄ら寒さ、怖さもあると気づかせる力量のあるタイプが必要。他にも多種多様な個性があってこそ、全体が活きる。

    なので、作家が出版社を立ち上げて継続的な漫画文化を育てようと思えば、資本はもちろん、多様な作家に対応できるゼネラリストとしての編集が必要。それだけでもまだ不足で、HONDAにおける藤沢武夫的な、営業や財務畑でサポートしてくれる人材が必要。佐藤先生に、そういう参謀はいるのか?

    出版社に関しては、既得権益を手放せない大手はともかく、中小は身軽に動ける。写植の時代、写研にシェアを奪われていたモリサワは、DTPのフォントに賭けるしかなかったが、結果的にそれが現在の隆盛につながり、不正確な表示しかできないとDTPを嫌った写研は時代に乗り遅れた。

    実は電子出版、日本はアメリカよりも既に市場は大きい。特にエロ漫画。規制が激しい紙に比較して、緩めのネットの世界にワニマガジンや竹書房は早い時期から進出し、けっこうな売り上げを叩き出している。大手はそこにシフトできないうちに、中小にはチャンスがある。モリサワのように。

    紙の出版では基礎体力が必要だったが、電子出版なら小資本でも可能。この場合の資本という点で重要なのは、実は在庫を維持する倉庫。大手出版社の倉庫を見学すれば驚くが、広大な土地に高校の体育館より巨大な建物が立ち、何十万冊という在庫を維持管理し、出荷する。それがいくつもある。

    一度刷った紙の本は、それを維持するだけでも莫大なコストがかかるが、電子出版ならそこが不要。そこに可能性がある。なので、これから出版社では、才能ある作家を抱えた編集者が独立して商売を始めるか、能力がある編プロが反旗を翻す自体が増えると思う(今までも結構ある)。

    会社がリストラしようとすると、フリーでもやっていける自信がある有能な社員が早期退職に応募してしまい、辞めてほしい無能社員は、行き場がないことを知ってるのでしがみつくという構造が、これから生まれる。出版社の側も、作家以上に編集の人材育成が今後の存亡を左右する気がする。

    ところが元出版社の中の人であり、業界をうろついてる身として断言できるが、有能な編集を育てるノウハウは、実は無い。編集個人の生きてきた背景や個性が状況に合致して、生まれてくるもの。一種の名人芸的なものではないかと思う。結果、大手ほど編プロに頼り、有能な編プロから正社員登用と。

    もちろん、大手には大手の伝統や蓄積があり、流通の強みは圧倒的。本は、取次会社という所を通して全国に配本される。出版社がいくら刷っても、取次が受け取らなければ倉庫で腐らせるしか無い。全国の本屋は2万5000ぐらいあったのが、今は1万5000ぐらいか。しかしコンビニは増加中。

    大手は社員数が多い上、やっぱり元々が高学歴で能力が高いため、出会い次第で優れた才能を開花させる編集は多い。目先の売上にこだわって、受け幅が狭い編集者って、中小のほうが比率は多いかも。なので、大手は大手で紙のほうの利益を維持するし、時期が来れば電子にも本格参入するでしょう。

    では、電子書籍の未来とは? たぶん、芸人としての漫画家の生き方の選択肢になりえるかもと。今は、やっぱり大きな流通を考えた展開とかを夢想しがちだが、それには作家個人や編プロ集団では、難しい。組織が大きくなれば、理想より組織維持が自己目的化する。ただ立川流的な生き残り方も可能。

    全国に雑誌を流通させるためには、昔は2万5000分以下の部数は輪転機が少部数用の特殊な物になるため難しいと言われたものだ。文芸誌は、出版社の意地で出してるとも。それは今も変わらないが、現在は1万部を切る雑誌もけっこうある。それでも単行本はそれなりの部数がないと配本されない。

    弱小出版社なら初版3000部なんて部数もあるが、それにしてもそこが伝統があって取次との関係があるからこそ、その部数でも引受る。5000部以下の本は、出版社が小さすぎても大きすぎても、流通に乗らない。事実、自分の尊敬する漫画家は、デビュー20年だが、単行本が一冊も出ていない。

    だが、例えば下関のネットラジオ『くりらじ』は、月額525円で科学解説番組『ヴォイニッチの科学』を配信した。配信三ヶ月ぐらいで登録1000人オーバーしたといってるので、今はもっと多いはず。525円で1000人なら、52万5000円。配信会社の取り分もあるが、悪くない数字。

    大手なら箸にも棒にもかからない3000部作家でも、例えばそれを月額500円で定期購読してくれる1000人の読者がいれば、ComicStudioなどでアシスタントの人件費を押さえれば、なんとか食っていける。2000人いれば月産枚数も増え、かなりの好循環を生み出せるはず。

    考えてみたら、落語の独演会で1000人集めるとか、実は大変な数字。入場料の単価は違うが、でもその集客力があれば食っていける。漫画家も、商業誌ではお呼びでなくても、好きなことで食える可能性がある。商業誌で需要がある作家でも、心ならずも打ち切られた作品を継続できる可能性が。

    大手出版社が内心恐れるのは、担当編集が売れっ子作家をそそのかし、独立すること。それは作家個人(と担当)にはメリットがあっても、出版社と敵対関係になる。会社の名刺を自分の実力と勘違いした編集はともかく、やはり漫画に情熱ある、有能な編集を生み出す土壌としての出版社の存在は必要。

    出版社とウィンウィンの関係になれれば、それがベスト。後ろ向きと言われるかもしれないが、自分は電子書籍は商業誌に向かない作品や作家、少数の根強いファンのいる作家にこそ可能性を感じる。で、その点に関しては山路達也氏の『弾言』と『決弾』の電位書籍化の事例が参考になるかも。

    両著作は、過去に出版社から出たものをiPhoneのApp  Store用に電子化したものだが、電子化に当たって利益の一部を本の出版社に印税として払っているとか。これなら出版社はリスクなく利益が上がり、発売側は制作と販売の責任とリスクを負うが、その分の利益も多く得ることが可能。

    例えば人気漫画家は原稿料を抑え新人は最低額を保証し、新書と文庫本は出版社に任せるが、電子書籍の権利だけは保持する、場合によっては電子書籍の売上から印税を出版社に払うというのならば、雑誌という場を維持しつつ、個人の利益と漫画文化の継続のため、双方にメリットがあるのではないか?

    ー了ー

    2011年1月8日
    喜多野土竜  @mogura2001
    http://twitter.com/#!/mogura2001

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